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父方の祖父母:家族をつないだおしどり夫婦

昨日に続く連載。家族を振り返るシリーズ。今日は父方の祖父母について。家族をつなぐ場をくれた。つながることの喜びを最初に知った思い出。

岐阜の地主から名古屋の別荘地へ――祖父を支える祖母の記憶

岐阜県恵那郡付知町(現在の中津川市付知町)で生まれた父。祖父は養子で牧野家に入り、「田舎のお坊ちゃん育ち」だと聞いた。歯科医だったのに、レコード屋を名古屋市で始めたとか…。私が覚えている祖父はヘルメットをかぶり、バイクにまたがっていた。かなり自由奔放な祖父だったのだろう。

そんな祖父を支える祖母は真面目で尽くす女性のイメージ。私の記憶の中の祖父はもう既にほぼ寝た切りになっていて、ほとんどお話できなかったような。その祖父をひたすらに寄り添い、介護していた祖母は、細見で、歳を取っても美しかった。NHKが祖母の介護を取材に来て、取材陣のあまりに横柄な態度に追い返した…なんてエピソードも耳にした。

若かりし頃の父と祖父母。私を抱く祖母から少し離れて、ちょこんと座る祖父がかわいらしい

名古屋市天白区八事はトヨタ自動車創業家の豊田喜一郎や中日新聞創業家の大島家など、多くの実業家の別荘があり、発展した地。恵まれた環境で父は育ったのだと感じる。自由奔放でお坊ちゃんな祖父を支える、昭和の女性の代表のような祖母。2人はとても仲のいい夫婦だった。

子だくさんの家族がたくさん集った昭和~平成の習慣

私が小学校高学年か中学生になる頃まで、ほぼ毎年のように正月になると、父方の祖父母の家に親戚中が集まった。その数、20人以上。集まる日は1月2日か3日が多かったと思う。年上のいとこと、かるたやトランプをして遊び、お年玉を叔父・叔母にもらっては喜び・・・おぼろげながら懐かしい記憶がよみがえる。

親戚の多くが住む地域が愛知県と離れていて、三重県や静岡県と、結婚でばらばらになったこともあり、もう今ではそんなつながりが全くないことが残念過ぎるが、ああやって集まることができたのは、父が5人兄弟で、2人の叔父も2人の叔母も、子どもが何人もいたからだった。そして、兄弟のつながりが強かった。子だくさんの時代の親が子だくさん。すごく楽しかった。

祖母の誕生日をお祝いする孫=私のいとこたち。離れて暮らしていてもみんなで一緒に育った時代

今は大人も子どもも忙しすぎるし、余裕がなさすぎる。一筋縄ではいかない、なかなか入り組んだ事情で、会うこともままならない。ああして集まることができたのは、昭和から平成にかけてのよき家族文化だったなぁと懐かしい限りだ。

家族を越えて、親戚中でつながる場をつくってくれた祖父母。祖父が先に亡くなり、祖母も同じ敷地内に叔父家族が住んではいたが、1人暮らしを数年間した後、亡くなってしまった。天国でまた手でもつないでいるだろうか。またこれから私も、家族がつながる場を祖父母のように作れるだろうか。

2022年12月17日(土)、ドキュメンタリー映画『うまれる』を鑑賞後、家族について話し合う会を開催します。ぜひご家族のエピソードや写真を持ち寄って、2022年の最後は家族に思いを馳せてみませんか。

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