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ショートショート3 『地球に2つ目の衛星ができた件』

月に興味関心を持ったことが一度もない人というのは案外いるもので、『月が綺麗ですね』なんて言っても「そういえば月なんてあったね」と返してくる人すらいるこの世の中だ。ましてや、空を日常的に見る人なんかそう多くはないだろう。

まだ月がひとつだった頃、僕はそう考えていた。

それは突然の出来事だった。
何か兆候があったわけでもなく、一瞬、時が止まったような感覚の後のいつもと変わらない日常の空には、すでにもうひとつの月があったのだ。

この突如として現れた“もうひとつの月”(ここでは便宜上『亜月』と呼ぶことにしよう)は月とは言うものの、僕たちに馴染みのある方の月(便宜上、単に『月』と呼ぶことにする)とは姿かたちから異なっていて、例えば、月は黄色く、あるいは白くみえることがあるが、亜月は紅い。このせいで亜月の出現以降、地球の夜は少し赤みがかった闇に覆われるようになったし、月もピンクに近い色をすることが多くなった(このことを、月が「卑猥な星に堕した」と評する者もいた)。
また、その大きさは月よりもやや小さく、またその位置としては、月よりもやや低い位置で月を追うように公転している。
一方で月と同じ面もあり、例えば、自転公転をする方向やその速さ、亜月面にあると思われるクレーターも、その模様は異なるものの、月と同じように存在していた(ある人は亜月の模様について「蛇が鎌首をもたげているようだ」と評していた)。

と、このような亜月が突如として現れたことで世間は大騒ぎになった。
空を見上げるサラリーマンや子どもは毎日のように見かけるし、亜月に関する陰謀論めいた本も多く出版され、空を見ていたことが原因の事故も社会問題になったくらいだ。
また、亜月の出現の影響は、当然だけどこんなエンタメ程度のことには収まらず、様々な事象をもたらした。
まずは、海面上昇だ。亜月が地球にもたらす引力は月のそれよりやや弱いものの、大きく見れば月の引力が2倍になったようなものなので、潮の満ち引きは以前の2〜3倍大きくなり、日本の重要な国土であった沖ノ鳥島はついに海没してしまった。世界では全国民が移住を余儀なくされた国もあり、世界中の沿岸国で海面上昇に伴う災害が確認されている。
また、引力の変動により、地球がやや楕円形になったことで、気候変動や磁場の変動、生物の異常な生育などが認められた。これは当然ながら人間への影響も甚大で、世界経済への打撃を始め、慢性的な頭痛や平衡感覚の一時的な欠如、奇形児の誕生など問題が大量に発生した。

亜月が出現した当時、学生だった僕もいうまでもなくこれらの影響を大いに受けたものだが、そんなことに当時の僕の関心は一切なかった。

なぜなら、僕にとってより重要だったのは、
この亜月に『どんな名前がつけられるか』だったからだ。


このことについて、色々説明しなきゃいけないことがあるだろうが、まずは僕が亜月の命名にどうしてそんなにも興味を持っているか、から説明したほうがわかりやすいだろう。

端的に言えば、家庭環境によるものが大きい。
うちの両親はどちらも文学的なものに精通している人で、母は高校で古文の教師をしているし、父は大学で言語学を専門に研究をしており、その道の権威と言われている人だ。
そんな家庭にあって、家には文学作品や言葉に関する専門書がたくさんあったし、自由な教育方針も相まって、僕はこういったものに自然に興味を持つようになった。

まぁ、これ自体はどうでもよくて、1番の原因は、父が『地球第二衛星命名委員会』の委員として招聘されたことだ。

『地球第二衛星命名委員会』とは、気象庁、文部科学省、法務省などが中心となって立ち上げたもので、文字通り地球の第二衛星である亜月の公称を決めることを目的とした委員会だ。

亜月という名前があるじゃないか?と思う人もいるかもしれないが、亜月というのは俗称に過ぎず、人によっては呼び方が大きく異なる。
亜月に関する各メディアの記事を見てみると、亜月以外にも、異月、紅月、小月、アナザームーン、もうひとつの月など、バラバラだ。
このように名称が統一されていないと、亜月の引き起こした現象を報道したり、説明したりする時に誤解が生じる可能性も大きくなってしまう。そこで、統一的な名称として公称を決めるべきだという議論があったわけだ。

星の命名となると、その発見者が一定の命名規則に沿ってつける方法がよく知られているが、それ以外にも、いずれの国でも同定できるようにつけられる符号や番号も一種の命名方法と言えるだろう。
地球第二衛星命名委員会(以降、単に『委員会』と呼ぶことにする)では、前者に近い方法で名前を付けることを目指した。亜月に対して、まさに「月」のような名前を新たにつけようと言うわけだ。
こうして始まった委員会であるが、公称を決める議論に取り掛かる前に、命名を行うにあたって、いくつかの満たすべき条件を決めるところから委員会はスタートした。

その結果、以下の条件が挙げられた。
①既存の天体と同一、あるいは類似した名称でないこと
②発音しやすいこと
③1語であることが望ましいこと(1文字という意味でないことに注意)
④公序良俗に反しないこと
⑤いずれの個人、または団体に対しても、利益、ならびに不利益を与えない名称であること。
⑥第一義的に地球第二衛星を示す言葉であること
⑦国民に受け入れられるような名称であること

この7つである。
あえて説明しなくてもよさそうなものもあるが、一応、それぞれに説明を加えておこう。

①既存の天体と同一、あるいは類似した名称でないこと
そもそも、亜月を同定するための名称をつけようという名目なのだから当然である。また、類似している名前も、今後、亜月に関する報道や発表が増えていくことが予想されるため、混同を極力避けたいとの理由から排除することにした。

②発音しやすいこと
亜月の寿命は月と同程度と考えられており、今後、地球が太陽の膨張に飲み込まれるまでは、委員会で命名したものが永年使われることになるから、発音しやすいことが望ましいのは言うまでもない。

③1語であることが望ましいこと(1文字という意味でないことに注意)
2語以上の名称は煩雑化を引き起こしかねず、また、どこまでが名称なのかを分かりにくくするので、1語であることが望ましい。
ここでの1語というのは、例えば「りんご」や「卓上テーブル」といった1単語の意味であり、「あ」などの1文字ではない。

④公序良俗に反しないこと
そういえば、亜月を『変態の権化』と蔑んだあの専門家は委員会に招聘されなかったらしい。

⑤いずれの個人、または団体に対しても、利益、ならびに不利益を与えない名称であること。
この条件は委員会が最も重視した条件の一つだ。
亜月は、その発生の端緒が一切掴めていないものの、月と同程度の大きさの星を建造し、誰にも知られずに打ち上げられる技術が今の地球にあるとは思われないことからも、人工物ではなく、月と同じ自然物であることがわかる。このことから、亜月とは太陽や月と同じ超自然的な物体であり、普遍的な存在であることを意味している。
それゆえ、委員会で命名する名称が誰かの利益に、あるいは不利益になることは、その普遍性からも否定されなければならず、等価値の意味を持つべきである。

⑥第一義的に地球第二衛星を示す言葉であること
「第一義的に地球第二衛星を示す」というのは、言い換えれば、手垢のついていない言葉でなければならないということである。
例えば、「月」という言葉は地球第一衛星のことを第一義的に指す言葉であるが、「食堂」という言葉は、ものを噛んで飲み込むことを意味する「食」と場所を意味する「堂」という2つの言葉で「食べる場所」を意味する言葉として成立しているが、「食」も「堂」も第一義的には「食堂」を意味しない。こういう言葉を使わないという意味だが、まぁ端的に言えば、熟語じゃなければいいという理解でいいだろう。(それゆえ、「亜月」はだめということだ)

⑦国民に受け入れられるような名称であること
象牙の塔で作られた、国民感情に寄り添わない単語は定着しえないので、多くの国民に受け入れられることは重要である。

以上、7つの条件である。

このような条件を踏まえた上で、亜月の公称を考える議論がスタートした。
毎晩、げっそりとした顔で帰ってくる父を見る限り、それはもう喧喧諤諤の議論が行われたことだろう。
父から漏れ聞いた話だと、まず委員会は、ひらがな2文字で作られる言葉の、50音すべての組み合わせを列挙し、それぞれ意味のある言葉か否かを判別するところから始めたらしい。その後、二班に分かれ、そこから亜月の名称になる可能性があるものをピックアップし、その2文字を表す、既存ではない新しい漢字を作成する班と、3文字で作られる言葉の50音の組み合わせを検証する班に分かれたという。
その過程で創られた新しい漢字を書いたメモをいくつか見せてもらったが、新しい漢字と共に、そのメモに『中国の漢字は考慮しなくていいと誰か言ってくれ』と殴り書きしてあったことをよく覚えている。

そんなこんなで、約半年にも渡った地球第二衛星命名委員会の議論は、ようやく終わりを迎えた。


焦らしても仕方ないのでさっさと言ってしまうが、地球第二衛星命名委員会が名付けた亜月の新しい名前、公称となるその名称は、

『AB』

である。

は?と思われた人ばかりだと思うが、まぁちゃんとした説明を聞いてほしい。

まず、先述した7つの条件を満たすために、委員会は亜月の新名称を漢字で表すという選択肢を捨てて“新しいひらがなを作る”という選択肢を取ることにした。
漢字となると、中国語にある膨大な量の漢字を調べて、そこで使われていない漢字を創るというのは果てしない作業になるし、比較的、創るのが容易で親しみ深いひらがなにしたほうが良いだろうという理由からだ。

そこで、委員会は、50音の最後、わ、を、ん、の次の行として、5つの文字、A、B、C、D、Eを創造した。
なぜ、日本語ではなくアルファベットなのか?と思われるだろうが、これは便宜上、そう表記しているに過ぎない。
実際、委員会が新しく創造したひらがな5文字は、ちゃんとした見たこともないひらがなが5つ並んでいて、当時、誰もが衝撃を受けた。
ここで、そのひらがなを書けないのは、それが新しく創造されたひらがなで、今僕が使っているデバイスにその文字コードが想定されていないからだし、そもそも世界中のどんなデバイスでも表記できないからだ。

なのでここでは、この新しいひらがなをABCDEと表示しているに過ぎない、というかこういうふうにしか表示できない。致し方ないのだ。

このABCDEという新しいひらがなは、委員会によって『衛星仮名』と名付けられた。この名称自体は『衛星仮名』発表と同時期に可決された『日本国における地球第二衛星の取り扱いに関する法律』(第二衛星法)において法的根拠を与えられた公称である。その第3条1項において、衛星仮名は『衛星の名称をつける目的でのみ使用』することのできる仮名とされ、同条2項において『国会によって指名された衛星命名委員会が前項の目的を達成するために使用する場合を除き、いかなる場合においても衛星仮名の使用を禁じる』ものとされた。
つまり、この衛星仮名ABCDEは衛星の名称をつけるためにしか使えず、衛星の命名以外には、どのような目的においても使えないひらがなとされた(例えば、衛星仮名で商標を取ることはできない)

このように衛星仮名としてABCDEを設定したことで、設置した7つの条件を満たすことができるわけだ。ABCDEが新しく創造されたひらがなである以上、どんな個人、団体に対しても利益、不利益を持ち得ず、また既存の天体に被らない名称になりえる。加えて、衛星の名称以上の意味を持ち得ないから、公序良俗に反し得ず、1語で表現が可能となる。

では、この衛星仮名ABCDEを用いてどのように亜月の名前『AB』が決まったのかというと、単に組み合わせである。
5つの文字の組み合わせであるから、AB、AC、AD、AE、BC、…という10通りの中の最初のABが亜月の公称に決まった。(AAやBAという組み合わせは混同しかねないので使用しないこととした)
このように形式的に名称を決めることで、人為を廃せるし、また委員会が特に考慮したのは『今後、第3、第4の衛星が出現する可能性』だった。

現時点で亜月、改め、ABが出現した理由はわかっていないため、今後、第3、第4の衛星が出現しないとは誰も言い切れない。その場合、亜月に伸縮性のない固有の名称を付けてしまうと、第3の衛星が出現した際にまた頭を悩ませることになる。
5つの衛星仮名を用意し、形式的にその5つの組み合わせを名称として使用することにすれば、2文字であればABを含めて10通り、3文字であればより多くの衛星の出現に対応でき、この方式で命名すれば自動的に7つの条件にも抵触しえない。
また、仮にであるが、10通りを超える数の衛星が出現した場合、2行目以降の衛星仮名を作成すれば事足りるので、そういった場合にも対応できる。
ただ、衛星仮名の発音など、一部課題の残る結果とはなってしまった。



こうして出来上がった衛星仮名と地球第二衛星の新しい公称であるABは、一定の理解と反発をもって国民に受け入れられたが、テレビや省庁発表などでABの名が使われるようになると、次第に人口に膾炙していくようになった。
ただ、その頃には、二つ目の衛星ABがある生活も安定し始めていたし、新しい生活様式に慣れてきた頃でもあったので、そもそももうABに対して関心を払う人が少なくなったというだけの結果なのかもしれない。



ABの出現によって、天体や星に興味を持つ人が増えて、僕と心を通わせあえる人たちが増えるのも時間の問題だろう!なんて期待してたけど…僕は落胆を隠せなかった。まぁ、みんなが空を見る時間が少しでも増えたのならそれでいいんだけどね…

さて、今日はここまでにして、日課のABの観測でもしようかな。今晩は、ABがちょうど満月になる日だ。
ABという名前、丸っこくて僕は案外好きだけど、満ち欠けの表現が月と被っちゃうのは不便だな…
まぁ、致し方ない部分ではあるけど。

あえて言うなら、満AB…?あるいは、三日AB?

うーん、父に相談してまた悩ませてみようかな。


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それから数年後。
衛星や衛星仮名の取り扱いを定めた法律である『日本国における地球第二衛星の取り扱いに関する法律』が改正され、その名称が『日本国における月を除く衛星の取り扱いに関する法律』と改められた。



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私がこの手記を地域の古本屋で見つけたとき、驚きを隠せなかった。
だって、衛星がひとつの時代が本当にあったなんて信じられなかったから。
たしかに、学校の歴史の授業ではそんな時代があるって聞いたけど、にわかには信じられなかったし、衛星で埋め尽くされているこの空が、昔は『星空』という闇夜に覆われていたなんておとぎ話の世界のことだと思っていた。

この人の手記は、『日本国における月を除く衛星の取り扱いに関する法律』の1回目の改正が行われたところで終わっているけれど、この人がこの世に生まれてきたら、腰を抜かすどころじゃすまないだろうな。

そんなことを考えていると、スマートアイレンズに通知が入った。

『速報です。衛星省の発表によると、地球に新たな衛星がまた誕生したとのことです。この衛星の名称は改正衛星法に基づき、〇□※と呼称されます。新しい衛星が出現するのは〇△※出現から約2ヶ月ぶりとのことで、今回で29863回目となります。』

注※〇□は衛星仮名5213行3段目と4段目の組み合わせによる名称であり、〇△は衛星仮名5213行3段目と2段目の組み合わせによる名称である。
使用するデバイスによってはこの衛星仮名を表示できない場合がある。


おわり

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