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紳士な蜘蛛のお話

 車を運転していると、フロントガラスに虫がいることに気が付いた。
 どうせ走っている内にどこかに行くんだろうとか思っていたが、どうやらその虫が車内にいると分かって少し驚いた。どこからか隙間を縫って入って来たんだろう。
 そいつはドライブレコーダーから糸を垂らしている蜘蛛だった。虫も蜘蛛もそんなに苦手ではないので、つまみ出して追い出してやろうと思ったが外が雨だったので、せっかく雨宿りしているのに可哀想だったし、自分もこれから急ぎの用事がある訳でもないのでそのままにして車を停めた。
 少しばかり蜘蛛の様子でも見てやろうと思ったが、車を停めるなり蜘蛛は自らの糸を登り始めた。ここで巣を作る訳ではないらしい、と蜘蛛観察もやめようとしたところ、そいつが話し掛けてきたのだ。
「どうもこんにちは、人間さん」
 見るとその蜘蛛はハット帽のようなものを被っていて、八本ある内の一本の足だけが器用にその帽子を取って挨拶をしてきたのだ。信じられない出来事に僕は一瞬言葉を失ったが、こういう時にはこういうことも起こるのかもしれないと、わりとすんなり受け入れて話をしてみようと思ったのだから、この時の自分は本当に正気じゃなかったのだと思う。
「こんにちは、紳士な蜘蛛さん」
 と僕が言うと、帽子を被り直しながら蜘蛛はこう返してきた。
「紳士だなんて、とんでもない。でも、ありがとうございます」と蜘蛛は話す。「私が見る限り、貴方こそ紳士な人間のようです。こんな小さな私を、貴方の住居で雨宿りさせてもらっているので」
「ああ、いや……ここは住居って訳ではないんだけど」
 だけども蜘蛛に、そこまで説明しても難しいだろうと僕は言葉を切った。それより蜘蛛がここで何をしていたのか、僕は気になった。
「それより蜘蛛さん、ここで何を?」
「ああ、失礼。まずはそこから話さなくてはいけませんでしたね」と言うと、蜘蛛は糸を垂らしてハンドルの上に飛び乗った。「私は、ついこの前まで赤い屋根の軒下に住居を構えていたのです。ですが、この前の嵐でうっかり吹き飛ばされてしまいまして」
 赤い屋根。それは僕の家の近所だと分かる。そこから僕の車に入って来たというのか。巡り合わせというものは時に不思議なものだなぁと呑気に僕は思った。
「ただ、心残りがありまして……」と蜘蛛は重々しく話続けた。「住居には私の家族がいるのです。私の妻はそろそろ子どもの出産を控えていまして……今はどうしているのか心配なのです」
 それは、と言いかけて僕は口を閉じた。蜘蛛の習性を知っている僕は、本当のことをつい言い掛けたが、ここまで仲良くなった紳士な彼に、そんな残酷なことは言えなかった。
「では、貴方のお話を聞いてもよろしいですか?」
 今度は蜘蛛から質問を投げられた。自分が聞いたのだから、質問をされても仕方がないんだろうなと僕は思った。
「僕の話はつまらないよ。寝て起きて仕事して。その繰り返し。その癖不器用だからなんの役にも立たない人間。……いいや、もしかしたら僕は、人間じゃないのかもなぁ」
「貴方が人間ではないのだとしたら、なんだというのです?」
「君と同じ、蜘蛛かもしれないね」
 そんなことを言ったら、蜘蛛はなんて返すのだろう。蜘蛛は驚いたのかなんなのか、一瞬黙りこくったから、僕は地雷を踏んだのかと思った。
「そうですね。寝て食べて仕事をするのは、私たち蜘蛛と変わらなさそうです」と蜘蛛は言った。「ところで、今ここはどこなんです? 先程いた場所とは違い、周りは緑が多いみたいですが」
 まるで僕の言葉を何も気にしていないとでも言うかのように、蜘蛛はさらに話を広げていった。僕はそれで構わないと思った。蜘蛛と会話をするという非現実的な状況の中、こうしてのんびりと話が出来たのは、自分に興味を持ってくれていることが、嬉しかったからかもしれない。
「そうだね、ここは樹海の中だから、さっきいたところとは違うよ」
 と僕が答えると、蜘蛛は驚いたように前足二本を上げた。
「そうなんですか! 貴方の住居は、移動しながら住めるのですね」
「まぁ、そんな感じ」
 それからぴょんっと跳ねて、蜘蛛は辺りを見回すかのようにくるりの這い回った。
「私はいつも人間の住居の隅にばかりいたものですから、ジュカイに来るのは初めてです。なのになぜか、少し懐かしい気持ちになります。不思議ですね」
 そう言ってガラスにへばりついた蜘蛛は、しみじみと外を眺めた。僕も改まって周りの樹海を眺め、確かに懐かしい気持ちが湧いてくるようだと思った。
「僕もそう思ったところだよ。もしかしたら人間も蜘蛛も、大昔は樹海から生まれたのかもね」
 遠いご先祖を辿ると、生き物は海の中にいたという。そこから陸に上がって、森が出来て、そして虫や哺乳類が生まれた……なんて壮大な過去に思いを馳せていると、蜘蛛がぽつんとこう言った。
「それは素晴らしい考え方ですね。貴方のお話を聞いていると、家族に会いたくなりました」それから蜘蛛はまたぶらりとぶら下がった。「親切な人間さん。どうか私の住居があった赤い屋根のところまで、連れて行ってくれませんか?」
「それは……」
 僕は言葉を詰まらせる。だって僕はもうあの場所には帰るつもりはなかったのだから。それに、帰ったところでこの蜘蛛も無事でいられるかどうかは分からない。どうか彼の妻となる蜘蛛がすでに赤い屋根のところにはいないといいのだけれども。ああ、いや、他人どころか蜘蛛にすら気遣うようになったなんて、僕も少しは変わったのかもしれない。
「失礼、もしかして貴方は、まだ用事が終わっていないので?」
 僕があんまり黙っているからか、蜘蛛がそう訊ねてきた。僕は慌てて答えようとした。
「ああ、いや、そういう訳では……」
「なら、私は貴方の用事が終わるまでここにいます。外はまだ雨ですし、いくらでも待ちますよ。それとも、私がここにいるのが邪魔になったのでしょうか?」
 僕はしばらく考えた。紳士な蜘蛛も何かを察したのか、それ以上は喋ってこなくなった。
 僕が用事を終わらせたら……と思うと、この蜘蛛がずっとここで待っている姿が容易に想像出来て心が苦しかった。でも、もしあの場所に戻ったら、僕の固めた意志も揺らぎそうですぐには判断出来なかったのだ。僕はかなり悩んだ。
「おや、人間さん……貴方の瞳から雨が降っているようです」
 そう蜘蛛に言われて気が付いた。僕の目からは涙が零れていたことに。
 僕は瞼を擦った。なんでもないと言って僕はハンドルを握った。そして紳士な蜘蛛には、しっかり糸を張っててねと注意喚起する。
「おや、用事はいいのですか?」
「僕の用事はあとでもいいんだ。今は蜘蛛さんが家に帰ることが大事だ」
「それはどうも、ありがとうございます、人間さん。貴方はやはり、紳士な人間さんですね」
 そうして僕は、車を走らせた。向かうのは僕の自宅がある駐車場だ。その隣には赤い屋根のご近所さんがあって、きっと蜘蛛はその軒下の家に帰る。
 その間蜘蛛はずっと喋っていた。通り過ぎる別の車や道路の標識がなんなのかと全てに興味を持っていたから。だから僕も、蜘蛛の話をしてあげた。
「人間のところには、蜘蛛を大切にしているお話があるんだよ。蜘蛛の糸で人間を助ける話さ」
「おお、それは有難い話ですね。今まさに、貴方が私にしていることと同じですね」
「助けられたのは僕の方だよ。貴方に出会えて、お話出来て嬉しかった」
「それはどうも、何かお役に立てたのなら嬉しいです」
 それを最後に、蜘蛛は喋らなくなった。僕はそれでもいいと思った。ドライブレコーダーから糸を垂らしてゆらゆらするだけの蜘蛛を視界に、車を走らせる静寂さ。僕は妙にこの空間が気に入ってしまったのだ。目的地に着いたら、もう蜘蛛に会えなくなると分かっていても。
 僕は自宅の駐車場に車を停めた。さ、着いたよ、と言っても蜘蛛はとうとう返事をしなかった。ただ車のドアを開けると、合図をした訳でもないのに蜘蛛が糸を架けてぴょんっと外へ飛び出した。
 あっという間に茂みに飛び込んだ蜘蛛はどこへ行ったか目では追えなかった。でもきっと、自分の住居へ帰ったんだと思う。僕はそう信じることにして、帰路についた。
 もう少しだけ、生きてみようと思った。

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