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ぼくの中の『My Wild Irish Rose』(今朝は、カフェオレ)

音楽はかつて経験したことのないものを思い出させる、とロシアの作家が書いていた。

堀江敏幸『河岸忘日抄』p331より引用

キース・ジャレットの『My Wild Irish Rose』を、ふと、思い出した。のは、そのときに、なにか思い出すものがあったからだろうか。もちろん、「経験したことのないもの」を。

――『My』……は、さておき。『Wild』は『野生』……か? それで、『Irish』……そのまま、『アイルランドの』でいいのかな。……だから、『アイルランドの野生のバラ』か。……あ、『私の』も付けて。

――『愛する』とか、『愛しい』も含んでそう。

――……あ、アルネ。

――何をしていたの?

――ええと……なんだろう……思い出に耽ってた?

――存在しない思い出に?

――……ちゃんと、最初から聞いてたんだね。

アルネは、肩をすくめながら、くすくす笑った。


ぼくにしか見えない、ぼくだけの女の子。

――『私の愛しいバラ』……しかも、野に咲く花、か。

――そんな人がいるの?

――いるらしいよ。架空の思い出に。

――でも、音楽が想起させるから、タイトル通りの思い出とは、限らないでしょう?

――それはまあ……たしかに。

――それとも、ちゃんといたのかしら? 覚えのない思い出に。

――いたかもしれないね。『私の愛しいバラ』に捧げた曲なんだから……たぶん。

ぼくらは、同時に肩をすくめた。

――今朝は、なにがいい?

――カフェオレかしら。

――わかった。

『私の愛しいバラ』。野に咲いているのだから――持ち帰らなかったのだから、遠目に眺めていたことも、ありうるな。


あたたまった牛乳が、甘い匂いを立ち上らせるのを嗅いで、そんなことを思った。

――はい、どうぞ。

――ありがとう。……少し甘くて、おいしいわ。

――……。

――どうしたの?

――ううん。……ただ、『経験したことのないもの』なのに、こんなに物思いに耽ることもあるんだな、って。

――……私も、いわば『経験したことのないもの』よ。君が、作ったんだもの。

――そうだけど……。じゃあ、アルネが『私の愛しいバラ』なのかな。野に咲いてはいないけど。だから……その、ちゃんと思い出にいるんだよ。架空かどうかを、さておいても。

――……。

――……。

――おかわりを、もらえるかしら。

――うん、もちろん。

架空の思い出に、『私の愛しいバラ』に浸るのは、ここまで。ぼくは、目の前のかわいい人のために、おかわりを淹れ始めた。

13日目

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