きしねんりょのよる
「大丈夫ですか?」
わざわざ路肩に車を停めてまで、そのお姉さんは声をかけた。
「はだしですよ?」
「……」
「どこかへ行くところだったんですか?」
「わからないです」
「歩き方もおかしかったですし……おうちはどこですか?」
「あっちです。あの、帰ります」
「帰れますか?」
「はい。ご心配をおかけしてすみません。ありがとうございます」
一応納得してもらえたのか、お姉さんは何度もふり返りながら、車に戻った。ぼくも踵を返した。まだ、うちから1kmも離れていない。はだしで、寝巻きで。ぼくは、どこへ行こうとしていたんだろう。死にたくなって、うちを飛び出して、見知らぬ優しいお姉さんに保護されかけて。何をやっているんだろう。
死にたかった。死にたくて、死にたくて、どうすればいいのかわからなかった。
帰宅したぼくは、まだ死にたかった。衝動が抑えきれない。包丁の切っ先を、腕に当ててみた。白い筋が走る。赤い筋になる前に、刃物の重さに怖くなった。死にたくないのか、刃物が怖いだけなのか。代わりに(?)時々するように、自分の腕に嚙み付く。痕は残っても、血は出ない。ぼくの歯は鋭利じゃないらしい。
ことばにならない声が出る。卑屈そうな笑い声が漏れる。可笑しいことは、何もない。おかしくなっているのは、頭だ。
そうだ。そうだ。頭を冷やそう。ぼくは、寝巻きも脱がずに、浴室に飛び込んだ。蛇口を捻って、冷水を頭からかぶる。冷たい。気持ちいい。笑い声がますます高くなる。口角は上がっていない。喉だけが震えている。肩まで濡らしたぼくは、勢いよく浴室を飛び出して、そのまま倒れ込んだ。毛先からもろもろが滴る。ぼくはまた笑った。
パートナーが、何枚ものタオルで頭を拭いている。ぼくは笑い続けている。おかしいから、笑っているわけじゃない。それをわかっているから、パートナーは笑わない。大切な人がそばにいても、狂うときはとことん狂う。ぼくは涙を流しながら、それでも笑いは止まらなかった。死にたい。死にたい。タオルに埋もれたぼくの声はくぐもっていた。
どうやって寝たのか、あんまり覚えていない。目を覚ました今、衝動は治まっている。昨日のことを、冷静に書ける程度には。希死念慮。どれだけ幸福でも、それは突然襲いかかってくる。文字通り、ぼくをころそうとする。たすけて。たすけて。ぼくはぼくを救えない。誰にも救えない。
昨日を生き延びたぼくは、優しい人に出会えたぼくは、運がいい。運が悪かったとき、他に誰もいなかったとき、ぼくは。
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