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ぼんやりしている(n回目)

どうして、代数(n=2とする、とか)は、nが使われることが多いんでしょうね。ちなみに、調べてもよくわかりませんでした。はい。この話は、これ以上広がることはありません。


ぼんやりすることは、いつものことです。癖です。習慣です。慣性の法則です。それは違うか。とにかく。ふと、意識がどこかへ飛んだり。(幸い、そのまま気絶したことはないけど。)現在地がわからなくなったり。(当てもなくふらふらするからだけど。)こんなんだから、時々人間じゃない扱いをされる。とはいえ、どうすればいいのか。


あと、「ぼんやりする」とは、ずれるかもしれないけど。どれだけ楽しくても、突然「なにをしているんだろう」「ああ、死にたい死にたい」と、どこまでも墜ちていく感覚に陥ることがある。ぼくがいるのは、なにも見えない、なにも聞こえない底。人間らしくふるまって、人間らしく受け入れてもらえたのは、夢幻。


ぼくは、現実を遮断する。ぼくだけの、ぼくだけに優しい世界。どれだけ目をつむっても、すぐに崩れてしまう脆い世界。ガラクタに埋もれたぼくは、ガラクタをよけることもせず、倒れたままでいる。精巧に作り上げた妄想。それでも、ぼくは「死にたい」と願う。ぼくの、最たる願い? 幸せになったはずなのに。これ以上、なにを望んでいるの。


ぼんやりするのは、防衛機制だったりするのかな。(薬の副作用もあると思うけど。)これ以上、なにも思い出さないための。ぼくがぼくをころすためのトリガーなんて、今までの人生で、いくらでも転がっているから。


じゃあ、なぜぼくはまだ死んでいないの。自分をころそうとする度、邪魔が入ったから。運が良いのか、悪いのか。でも、いつかどこかで、たった一人きりで、誰にも邪魔されず、悲願を達成できるときが来るのかもしれない。あとは、本当に実行するかどうか。


「死にたい」は、悲願なんだろうか。ぼくは蓋の上に座っている。臭いものに蓋。「死んで逃げるな」そう訴えている。うるさい。だから、ぼくは死にたいんだ。黙っててくれ。そもそも、お前らのせいなのに。お前らのせいで、ぼくは「死にたい」が口癖になって、薬に頼るしかなくなって。


ぼくは、今朝もぼんやりしている。代数nを使わないといけないくらい。「死にたい」に苛まれて。実行することなく。時間は刻々と過ぎていく。ぼんやりして、生きているのか実感できないまま、生きている。

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