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「ぼくらしく生きる」に、限度があること。

ひとりで過ごすことが多い。のは、仕事をしていないからだし、引きこもらないようにしていても、どこかの店員と二言三言、必要最低限話すだけ。


だから、友人知人と話す機会は時々で、その時々で、ぼくは少々喋りすぎている。と思う。その場でどれだけずいぶん楽しく過ごしても、あとで必ず不安になる。余計なことを、言っていやしないか。


こういうことは、ぼくだけなんだろうか。そんなはずは、ないんだろうけど。でも、多くはないんだろうか。どうだろう。


なんにせよ、誰がどう思ったのか、気にしているのは、ぼくだけだ。それも、わかっている。


バカみたいに、同じことをくり返しているな、と思う。


ひとりになって、ふと、正気に戻るときがあって。ということは、誰かといるときのぼくは、正気じゃないのか。それも、わからない。ひとりでいるときの、すべての感情が凪いだような、鏡を見れば、しんだ目に覗き返されるのが、正気なのか。


腕を引っかくと、痛い。痛いはずだ。体はそれをわかっているのに、痛みが脳まで伝わっていないような。上手く言えない。ぼくは、なにを言っているんだ。本当は、正気とは縁遠いんだろうか。


いつしぬのか、しんでいいのか、わからない。


まだ、自分の体があることが、信じられない。ことがある。薬を飲んでいても、むしろ、薬を飲んでいるからなのか。不安定な思考とか、感覚とか。ちゃんと生きている? ちゃんと、ってなんだ? それ以上は、考えないようにする。考えすぎると、どこにも行けなくなるから。


人前の自分と、ひとりでいるときの自分。ギャップがありすぎて、人前の自分も、ちゃんと自分なのか、わからなくなって。ギャップを埋めようとするから、喋りすぎるんだろうか。でも、それで後悔して、悪循環だ。


昔よりは、ぼくはぼくらしく生きていると思う。でも、限度はある。


「自分らしく」は美徳とされているけど、それは、他人に迷惑をかけない程度に、が前提だと思う。「自分らしく」生きた結果、歓迎されないことは、多々ある。だから、いつもさじ加減を考える。いつも考えているから、疲れる。


身勝手で、暴力的で、自己中心的な自分を、しっかりころしてから、人前に立つ。ひとりに戻るまで、生き返らないように。


生きるのが楽になったのか。それとも、恵まれているくせに、まだ苦しいのか。わからないままでいる。

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