見出し画像

4月12日(月) じぶんの来し方を思えば

というわけで、気楽ながらに、ちょっとしんみり、思っていることを書いてみようと思ったのでした。

毎年恒例の選考会にて

週末は、土日ともに恵比寿に出社。

毎朝の散歩の時にその日や前の日思ったことの「記録」をツイートし続けている。なんとなくやり始めたのが、去年からずっと続いていて、なんだかんだで役に立ったりするもの。

さて、この二日間で選考会を実施し、総勢「50名」ほどの学生クリエイターとやりとりをした。

実際に、現地に来る人もいれば、オンラインで日本各地からつないで面接を受ける人もいた。基本的にはオンライン前提だが、会える人には会いたいから、という理由での希望制をとった。

※ちなみに去年は、「緊急事態宣言」真っ只中で、受験者も選考委員もオンライン、かろうじて我々事務局だけが恵比寿に集合していたのでした。

全ての人が「可能性」を持っていて、それを僕らがどれくらい活かしきれるかという事業。

「奨学金事業」と、ひとことに言うけれど、それで関わったことによって、もしかすると人と人との一生涯のお付き合いになることだってある。

現に、ぼく自身もこれまでお付き合いのあった学生たちの中で、いまだに連絡を取り合っていたり、今後も続いていくんだろうなぁとぼんやり思っている関係値の方もいる。

そんな感慨深げな感情を抱きながら、土日二日間の選考会はあっという間に終わった。

今回は、新しい「5期生」を決める選考会なのだけど、これ以降の選考に関わることはないので、寂しい思いもありつつ、ちょっと気持ちが楽になる。

どうしても、受かる人もいれば落ちる子もいる。

そのどちらに関しても、自分の一票なり、抱いた印象や、説明の仕方が評価に関わってきてしまうことは避けられない。

自分なんかが未来ある学生のセレクションに関わっていいものなのだろうか、と毎度のことながら思ったりする。

ただ、これは「じぶんが今、ここにいる」ということが大事なのであって、「誰がそれをやるのか?」は、さして重要なことではないとも言える。

誰かが、今、受け止めなければいけないことなんだと。

「ブリコラージュ」の考え方

こういう話を考えている時に、思い浮かぶ一冊の本と言葉がある。

数年前に夢中で読んだ、「続・ゆっくり、いそげ」

そこで初めて知った、「ブリコラージュ」というワード。

ブリコラージュとは、計画的に準備されていない、その場その場の限られた「ありあわせの」道具と材料を用いてものをつくる手続きを指す。この仕事に従事する者はブリコルール(器用人)と呼ばれる。
(「美術手帖」より引用

「今ここにいるメンバー」で、「今ここの仕事」をする。

持ち場をそれぞれが守る。それが大事。

理想を言えば、キリがないもの。

どれほどだって理想のチームは組めるだろうし、人手が必要なことだって、いつの時代も、そこかしこで叫ばれていること。

「エースで4番」ばかりのチームが、勝てるとも限らない。
(あ、野球に例えるあたりが、年齢を感じるな笑)

今ここにあるもの、今ここで時間をともにする人たちで、今やる。

「足りてないこと」「知らないこと」の多さに愕然とし、呪ったりしたことも何度もある。

だけれど、その呪いはいつまでたっても呪いだったし、虚しい叫びだった。

「自分に足りない」と思い込んでいたものは、別の人から見ると、分けて欲しいくらいに「あり余って」いたりもした。

ある意味で大人になり、いい諦めの方向で自分の「足るを知る」に行き着いたのかも知れないなぁと思っている。


ぼくも誰かの応援をしようと思います!