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進撃の巨人に感じる不安



 親として、子供たちが見る映画やテレビ番組は一応管理していたつもりだったのですが、気づいたら親の許可なくタブレットで勝手に見るようになっていて、気づいたら私以外の家族全員がはまっていたのが、『進撃の巨人』でした。



 ジブリ以外のアニメは全く興味がないので、新シーズンが出ると家族が盛り上がっていても、私は蚊帳の外に甘んじていました。娘からは、「ママと語り合いたいから見て欲しい!」と言われていたのですが、娘に追いつくには何十本も見なければならず、しかも永遠に終わる気配がないので、お茶を濁していました。ところが、空の巣となり時間の余裕ができたので、意を決して一気見しました。


 早く見終わって家族の輪に加わりたいと意気込んでいたのですが、見始めてわりと早い段階で、暗澹たる気持ちに苛まれました。


 それは、巨人による攻撃の描写が、原爆のそれに酷似していたからです。他にも、「人類のために命を捧げる」と作品を通して繰り返される言葉が、美化されたナショナリズムに鼓舞され命を落とした特攻隊を彷彿させ、気が沈みました。



 何がショックだったかというと、この作品が大ヒットしたということは、若い世代だけでなく日本人全体に、キノコ雲に対してアレルギーがなくなったということなのです。私の記憶では、私が子供の頃はまだ、社会全体に、キノコ雲に対して拒絶反応があったと思うのです。反核兵器を訴える以外のコンテクストで安易に描くものではないというのが不文律でした。




 さらに驚愕したのは、主人公の生い立ちのくだりでした。鉤十字やダビデの星こそ出てはこないものの、腕章や民族粛清など、ユダヤ人とナチスをモデルにしているとしか思えなかったからです。


 『進撃の巨人』はアメリカでも広く観られています。息子の友達のAくんも、とくにアニメ好きというわけではないながらファンであることを知っていたので、ユダヤ系である彼がどんな思いでこれを観たのだろうと思いました。もしくは、日本人がキノコ雲に耐性ができてしまったのと同じように、ユダヤ系の若者も、ナチスのシンボルに対する嫌悪感が薄くなってきているのでしょうか?


 つい最近も、映画『バービー』に絡み、原爆のイメージが無神経に扱われたことが問題になりました。そのような画像を制作し発表する前に、批判が殺到するであろうことを想像できないこと、何も考えずに「いいね」する人が多いことに、驚きと不安を感じます。



 キノコ雲や鉤十字はじめ、歴史上には、人間性への信頼を失うような出来事のアイコンとなるようなシンボルがあります。そういうものへの生理的な嫌悪感こそが、同じ轍を踏まぬよう抑止力になっていると思うのですが、それが確実に薄れてきているのが、怖いです。



 ちなみに、『進撃の巨人』はシーズン4ぐらいから、大学の授業かと思うぐらい複雑になり、観ながら寝落ちすることが増えて、ついに挫折しました。

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