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洞穴/掌編小説

気がついたらこの暗い穴の中にいた。もうどれくらいここにいるのだろう。周囲の地形は手探りでしかわからないが、そう大きな空間ではないようだ。時折物音が聞こえる。音はぼやけてよくわからないが、もしかしたらこの壁はそう厚いものでもないのかもしれない。

ここの温度が快適なのは幸運だった。不思議とその温度が保たれているので、生命の危険を感じずに生きていられる。快適と言ってもいい。

しかし意識はずっと朦朧としている。自分の現状がまるで把握できない。自分はだれで、ここに来る前はどこにいて、どういう経緯でここに来てしまったのか。

ここから出なければならない、という思いは漠然とある。漠然とあるのだが、それに対する恐怖もある。すべてが謎だらけだが、少なくともこの空間のことは把握しつつあり、ここでは生きていられている。

どうやら外の世界はあるようなのだが、そこは安全なところなのだろうか。以前自分がそこにいたとするならば、その記憶は全くなくなっているようだ。

地面が揺れる。またか。ここでは頻繁にこんな地震が起こる。リズミカルにユサユサと揺れることもあれば、ブーンという低い振動音のあとに、強めの衝撃が数回走ったりする。

そういえば食事も摂っていない。暗い空間なので自分の姿を見ることはできないが、少なくとも衰弱している感覚はない。朦朧とした意識の中で、いつのまにか何らかの方法で栄養を摂取しているのだろうか。

意識は断続的だ。しばらく気を失い、また意識が戻り、しばらくするとまた気を失う。何度となくそれを繰り返し、少しずつ意識がはっきりしてきているようにも思う。

そのか細い意識をたどって考えると、どうも空間はだんだんと狭くなってきているようだ。手探りながらも空間内を動くことができていたのだが、ふと手を伸ばすともうそこは壁だった。依然周囲は暗いままで、全貌は把握できないが、自分と壁とを隔てる距離が、だんだんと狭まってきているようだ。

ここにいれば身の安全は保証されていると思っていたが、そうではないのだろうか。また地震だ。このところ地震の間隔が狭くなり、揺れも大きくなっている。ブーンという地鳴りは前より大きくなり、ブオブオ、ブオブオと何か信号のような音にも聞こえるようになってきた。

意識の断続がまた繰り返される。いまだもやがかかったような感覚ではあるが、自分という存在を前よりも強く感じる。心臓の鼓動を感じる。

気づくともはや、空間はほとんどなくなっていた。壁は腕や足に密着している。私の体全体を包み込んでいる。温かい壁の温度が直に伝わってくる。

この空間が私を殺そうとしているのではないことはわかる。しかし空間の方も、私に対して最大限の配慮をしてくれてはいるが、自らの収縮を止めることはできないようだ。

どうやらここから出なければいけないらしい。地震は止んだが、地鳴りの音は今までのような低い音ではなくなった。ガァァァ、ギヤァァァァと激しい音を立てているが、なんとなくなつかしい音のようにも思えた。

空間は、頭上に少しだけ空いている。真っ暗だった空間が、そのあたりからぼんやりと薄明るくなってきているようにも思える。

まだここにいたい。でもそれは許されないようだ。壁の収縮が明らかに強さを増してきた。私は押し出されてしまう。心地よかったこの場所、この空間が、温かい壁に押しつぶされていく。地鳴りはさらに激しさを増す。ヴァァァァァァ、アァァァァァァ。生き物の声にも聞こえる。その生き物を私は知っている気がする。

私はこれからどうなるのだろう。だれで、どこへいくのだろう。私を守っていた空間が今消え、何か強い力が頭上の壁に私を押し付ける。壁には少し穴が空いていたようだ。私はその小さな穴に向かって体をねじ込まれる。

苦しい。身体中が締め付けられる。頭が割れそうだ。あんなに心地よかったのに、なぜこんな思いをしなければいけないんだろう。しかし何か得体の知れない使命感が、私を動かしている。ここを出ろ、ここを出ろ、外に出ろ、と。

外に何があるんだろう。私の知らない何かがある。恐ろしいほどの不安と、それを越えるこの気持ちはなんだろう。

私は、外の世界に、触れたい。全てを、この身で、感じたい。


小さな部屋の中に叫び声が響いた。
同時に一人の女性が大きく息をつき、叫び声の方を見た。
「おめでとう、とっても元気な女の子」
もう一人の女性がそう言い、取り上げた赤子を母に見せた。
大声で泣き叫ぶ我が子に触れ、女性は言った。
「やっと会えたね」
彼女の目から涙がこぼれ落ちた。


(終)

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