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大地の色とうまく釣り合う空の色――フローベール「ブルターニュ紀行」

 フローベールの紀行文はあくことなくフローベールの文章として、そこを滞留する。たしかに、作家であるのならばそれがあたりまえだ、という言い分は、正当なものである。だがこうもいえる。それは旅にとっては、あたりまえであってはならないのだ、と。
 作家とは外部に触れる、触れなければならない人間でもあったはずなのだ。自らの価値や感覚というもの、それを人一倍強く持っているがゆえに、それを脅かす存在にひとたび現前したとなれば、火花を散らすような化学反応を、そこに示す。そうあれなければ、その価値や感覚は真正のものではないのだ、と。そういうことだ。
 あくまでも自らの世界の対し方を把持をして、自らの文体を作り出すか。それとも、あらゆる風物に素直に驚きを表明して、揺れ動きながら、世界の現れ方であり、自らの変化に順応をしてゆくか――。
 フローベールはあくまでも前者の側である。

 城の中に入ると、廃墟と木々が入り交じった様に、あっと驚嘆させられる。建物の崩壊が木々の緑の若々しさを引き立て、逆に木々の緑が、建物の崩壊の荒涼たる様をいっそうを耐えがたいものにしている。そこにあるのは、まさしく永遠の美しい笑い、物の残骸に対する自然の高笑いであり、自然の豊かさが示すあらゆる無礼な振舞い、自然の気まぐれが生み出す優美さ、自然の沈黙の侵入なのである。厳かな感激が心をとらえる。石が剥がれ落ち、壁が崩れゆく同じ瞬間に、樹液が木々の中を流れ、草が伸びてゆくのを感じる。卓越した技によって二次的な不調和がこの上なく見事に調和され、木蔦のとりとめのないかたちと廃墟の曲がりくねった輪郭が、茨の葉叢と崩れた石の堆積が、透明な大気と時間に耐えて突き出た建物の塊が、空の色と地面の色が、それぞれうまく釣り合っていた。
   フローベール「ブルターニュ紀行」渡辺仁訳

 ドグマかもしれないが、私にはこれがどこをどう読んでも、フローベール然としてやむことのない文章に感じられる。訳文のうまさもあいまってなのだろうが、小説中の文章がそのままここに貼りつけられてある、というふうにも私に、みえる。「驚嘆」「感激」という言葉はあるものの、廃墟を書けば書くほどに、それがスタティックな素描となる、廃墟という解体がしっかりと構築をされて、「驚嘆」も「感激」も言語につめたく囲い込まれていってしまうところに、「ボヴァリー夫人は私だ」と云ってのけた作家の面目躍如たるところがある、と同時に、不幸があるように思われてならない。彼のペンは驚きや感激さえをも、それを捉えたとたん、自らの言語の仮構性の領分へと、引きずりこんでいてしまう。
 私は型としてはそれが、イヤなのであるが、しかしイヤであるがゆえに、読んでいて、それがある種のひたむきさであると、認めざるをえなくなってゆくのだ。

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