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いつか死ぬ。でも今生きている。

最近全然文章が書けてなかった。考えることが少なくなったのかな、とも思う。人との関わりを減らしたから、自分の周りで起こる出来事が減ったのかもしれない。それでも心の中に残ってることがあるから、書いておく。

はっきり言って、2018年以降、老後の人生を生きている。あの頃、演劇がやりたかった自分。「私はアートの力を信じる」なんて独りよがりの言葉ではなく、誰もがわかる論理的かつ具体的な言葉または行動でアートの力を説明したかった自分。表現者でもなく、アートオタクではない、第三者の視点からでも「アートってこれだから素晴らしいよね」って言えるようになりたかった自分。情熱が第三者的視点を欠如させていて、アート沼を深くしているとわかっていた自分。そんな情熱に少なくとも誰かからの期待を感じられた自分。

あれから4年経った。表現することに身を捧げたいという情熱だけではもちろんのこと誰も説得できないでいる。夢が散ったのか、自分で潰したのか、なんてことも考えるけど、実際のところそんなことどうでもいい。というかだいたいのことがどうでもいい。ただ、いまだにアートが好きでいる。絵を描くことも続けている。前ほどの情熱はないけれど、映画や演劇もたまに見ると楽しいし嬉しい。アートの扉はまだ開いている。ただ、開いている扉をただ見つめている。まだ扉が開いていることを少なくとも喜んでいる。それと同時に扉が閉まるかもしれない未来の悲しみに向けて準備しているような気もする。運が良かったら、扉が完全に閉まってしまう前に意識を失えたらいいな、と思う。当然、扉の中には足を踏み入れられない。
どこかに芸術が好きな自分を抱えて、それでもどこにも行けない自分が今でももどかしくてたまらない。コロナが流行って、演劇や映画、音楽などの芸術活動に携わっている人たちは窮地に立たされ、『不要不急』の言葉で片付けられる羽目になった。声を上げる人もいた。2018年がなければ、私もその中の一人だったかもしれない。でも2020年の私はもはや当事者ではなかった。
2018年の冬に、「アートは趣味でしょ?なぜもっと社会のためになる、経済性のある仕事に就くことを考えないのか」と両親から言われた言葉が、2020年のコロナ禍で日本中、あるいは世界中のアーティストに降りかかったような気がした。
『劇場や映画館への不要不急の外出は控えてください。』
『劇場でクラスター発生。〇〇人が濃厚接触者に。』
『コロナ禍で劇場が経営難。』
あの時、オーディションに行ったあの劇団はどうしてるだろうか。あの時、客演した劇団の人たちは大丈夫だろうか。今の中高生は、あの時の私のように演劇に巡り合えていないんじゃないだろうか。「誰か、アートだって不要不急じゃないってこの資本主義社会で証明してよ!」と心の中で思う反面、「私がぶち当たった問題に実は誰も答えを出せてないのかもしれないな」と諦める気持ちもあった。劇場で鑑賞する形の芸術は廃れ、声を振り絞って、汗水垂らす演者を、隣の人の静かな興奮を感じながら体験することは未来における展示物と化していくのかもしれない。隣の観客の息遣いや、大笑いや、号泣は、もはや芸術体験の一部というより、感染リスクとしてしか捉えられないかもしれない自分がいる。劇場での芸術体験は、各々のベッドの上から自分のぬくもりだけの中で終わっていくものになるのかもしれない、と。もはやそれが悲しいのかどうかもわからない。

自分が信じていた時代がみるみるうちに終わって、New normalとかいう見せかけの新しい時代に目が回るような速さで変わっていく。何もかも。私たちの心の中までも。
安全対策の中に、空気の綺麗さが加わった。顔を見せて話すことが大人としての礼儀だったのに、マスクなしでは言葉を交わすことすら恐怖する人が増えた。出社しない働き方が普通になった。映画館で映画を見るよりも、半年後にAmazon primeまたはNetflixに追加されるのを待つ方が格安だと思うようになった。変わらない信念や情熱を持ち続け、何かを作り続けることの意義を信じていた私が、今は変わり続けることが強さだと信じるようになった。おかげでクソみたいな執着心が原動力というなんとも恥ずかしい自分から脱却したけど、自分の感情が全く信じられなくなった。発する言葉や態度に何も縛られない代わりに、自分を自分たらしめる何かが消えてしまった。

どこからが老後なのだろうな〜となんとなく思う。一般的に見て24歳の私には老後という言葉は早すぎるのかもしれない。私全体が老後なのかと言われたらそうではないと思う。でも、私の中の何かが確かに老後を感じている。信じていたものをなくし続けて、最後には明日も生きるだろうという望みと命そのものが消える。何も持たずに生まれてきたはずなのに、いつの間にこんなにたくさんのことに囲まれていたんだろう。いきなり老人になるのではなく、こうやってだんだんと失っていくことに気づいて、持っていた何かに気づいて、老後を感じる自分が増えていくのかもしれないな。本当にこうやって死んでいくのかな。でも、今生きているんだよな。望みは、最後に死ぬんだよな。


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