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人と対話ができているか

はい、いいえだけを求められたら、脳細胞はいくつか死ぬんだと思う。
「考える」という活動で脳は化学反応を起こすのに、それを止められて、相手に従うか従わないかの行動を二択だけで迫られるわけだから。

「そこは違うと思いますけど、この部分は理解できます」
なんて答えられて「偉そうに!」と言っちゃう人は、二択を迫って人の脳を思考停止させるタイプだから気をつけて。

そういう意味では、学校教育がたくさんの「はい」と「いいえ」で構成されているのはゾッとする話だ。

毎日の中には、二択だけで生きられる世界がかなり高度に作られていて、私達は一見、昔よりも楽な一生を送れるように進化したっぽく見える。

石器時代のように獣を追い回したり、冬の寒さに凍えて命を落としたりする、生きて行くために絶対に逃げられない数々のハイリスクを、かなり回避できているから。

だけど二択の世界には、「良い」と「悪い」もくっついている。
はいを"正しい返事"とする場合には、いいえは"悪い返事"になるし、いいえが最良の選択の場合、はい、は落とし穴にもなる。

こうなると慎重に二択について考える必要性が出てくるはずだから、本当はちゃんと脳を使って生きていけるはずなのに、世の中は「はい」を迫る社会を肯定しながら発展してしまった。
だから、いいえが言える人を嫌う。
いいえに慣れる機会がないまま育った人は、いいえと言われることに怯え、自分の口から発することに躊躇する。

言い慣れない人なんかは、いいえを言う時にいきなり怒ったりもする。怒らずに話せる内容であってもだ。
その態度を見ていると、ああ、ディスカッションしない人生を送ったんだなあと分かる。

自分の気持ちは自分にしか分からないのに、汲み取れない相手にいきなり怒りを感じたりするのは、ひとと対話を繰り返さなかったために伝えるスキルを上げられなかったからだ。
やりとりに慣れてないと、説明が必要な第一段階をすっ飛ばして、対話が成立しなかった最終ステージくらいの怒りにいきなり着火したりする。

対話は、ある意味怖い。

知識や経験が露呈するし、何より、もしかしたら仲良しだと思っていた人と根本的な違いを見つけてしまって、明日から関係性が変わるかもしれない。
マウントを取っていたはずの相手から取られてしまうかもしれない。

だから、二択の世界にしがみつく。
簡単に自分の仲間と敵を分けられて楽だから。

そこに長くいればいるほど、人生は孤独になるのにね。





*余談*
みんなのフォトギャラリーから写真をお借りしようと思って、ピンときた写真をクリックしたら、ワタナベアニさんの作品でした。
まさか無料で使えるギャラリーに彼の写真があるとは思っていなかったのでびっくりです!
つつ使わせていただいたんですがいいんだろうか。ドキドキします。

私のふにゃふにゃの思考を叩いてみたり揉んでくれたりしているワタナベアニさんの著作『ロバート・ツルッパゲとの対話』に、心から感謝を。

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