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【感情のトリセツ(2)】人の投稿を気持ち悪いと感じてしまう時

最近、立て続けに自分の感情を精査する機会があった。前から知っている人を、なぜか「気持ち悪く」感じるようになってしまったからだ。

ちなみにその人は、決して邪悪ではない。
どちらかというと心根はかなり良いことを知っている。もちろん嫌がらせをされたわけでもない。
なのに、なぜだろう。
今やフェイスブックの投稿ひとつとっても気持ち悪くてしょうがない。
あえていうなら、自分だけの独り言のようなポエム。ああ気持ち悪い。最初は我慢していたがよく考えるとそれも変な話なのでフォローを外した。

だからといって、まだ気持ちの悪さが胸を包む。
うーん、困ったな。
その人の扱いをどうしようかと考えていると、いつものごとく自然に自分の内側を深く覗き込むことになった。

最初にした仮定は、嫉妬だ。一番の想定外だからこそのアプローチ。可能性はないと言い切れない。問うてみる。

わたしはその人に嫉妬している?
うらやましい?
違う。
いや、それ以前の問題か。

ハッとした。

誰かを嫌い・苦手だと感じること。認めること。
それを「悪い」ことだと考えているんだ、私。

「この人嫌い」

そんな自分の気持ちを認める・肯定することにずっと私は抵抗してきた。
だから胸がこんなに気持ちが悪いのだ。
葛藤のカオスが渦巻いている。

これは感情という泉の色を変えようとしている状態だ。
(過去エッセイ【感情のトリセツ。】参照)
水を飲んではいない。色を変えようと頑張っているだけだ。

そして毎瞬間、大失敗をしている。
それでもうまくいかせようとがんばっていたことに気づいた。
そうなると、気持ちが悪い原因はその人ではない。

「わたしは誰に対してもよい気持ちを提供する人間」
「悪いところだけでなく、常によいところを見つけられる人間」
でありたい。そうでいられない自分を許せない。

嫌いは「悪い」と信じている自分。
それはそのまま、感情の泉のそばに住む村人の行動と態度である。

黒い水はよくない。透明にしなくっちゃ。
寝ずにがんばっていいところ探し(水の濾過)をしてきたにも関わらず、結局水はうっすら黒いまま。
その失望と虚しさに吐きそうになっていたことに気づいた。心の働きはなんて不思議なんだろう。

さて、どうしようか。

自分に質問することにした。

「好きだったのに嫌いになることは、本当に本当に悪いことなのか?」
こたえはNO。
無理ゲーすぎる。

次の質問
「誰かを嫌いだと感じる自分、”うわ、この人気持ち悪!”と思う自分を許したいか?」
こたえはYES。
こんな無理ゲーは、さっさとあきらめて気分良く生きていきたい。

嫌いになるのは悪い、と信じている部分が顔を出した。
興味深くその奥を見てみると、
「嫌われたくない」という望みが見えた。
なるほど。だから人を嫌いにならないように頑張ってきたわけだ。

自分が欲しいものを先に与えて保険をかけるやり方だ。
「ほら、わたしもあげてるんだから、あなたもちょうだいよ」というやわらかな脅し。そうしたところで、わたしのことを嫌いな人は嫌いだろう。変わるとは思えない。
そう冷静に思考した。

我に帰る。
胸が気持ち悪い。書いていても吐き気がする。
これが私の一部。認めよう。認めます。嫌いでいい、嫌い上等!

次の質問
「その人の何が嫌なの?(主観で教えなさい)」

・自分の本音をいわないし伝えない
・話すことが本当につまらない
・世界観が小さくてきゅうくつすぎ
・仲間を応援しない。ケチ
・一緒にいる時間、その場をよいものにしようとしない
・表現力が乏しすぎて超絶話しづらいしつまらない
・興味ないのにあるフリとかするのもうざい

ああ、そうか。
本当はだいぶ前からこういった気持ちを感じながら、長年自分の中で「なきもの」としてきたんだ。さらに紙にもっと本音を書いた。

書きながら自分で自分を励ました。

言葉選ぶな、わたし。
悪口、もっと言っていいよ、わたし。
誰も咎めない。大丈夫。
むしろ、盛り上がる。楽しい。
今まで我慢してたんだもんね。もっと言え〜。

書き出していくと最後は
「マジ無理」
「キョーミない」
の2つが交互に続いていくのみになった。
ウケる。

最後の質問。
「で、どうする?」

この人とは話あわない、興味と関心の方向も違う、尊敬もできない。よって時間とエネルギーをつかうのはもうやめだ!

これが本音だ。

何度でも言おう。
その人は悪くない。
興味がないのに、興味があるフリをしてきたのは私だ。
ごめんね。
あなたのせいではなかったよ。
そしてさようなら。

心の中でそっと謝り、手を振った。

するとこんな変化があった。

その人にどこかでリアルに出会うことにも、フェイスブックでの投稿をみることにも抵抗が霧のように消えさったのだ。
いつでもどこでも笑顔で挨拶できる自分がいる(そしてその後はかかわらないで本気でくつろげる)。
同じ空間にいてもくつろいでいられる自分が立ち上がった。
いま心からホッとしている。

そして人をきちんと嫌いになれると、友達になりたい、付き合いたい人もわかる。

・人生に好きなものがきちんとある人
・わたしの知らない分野に超絶詳しい人
・食べる行為に意欲的な人
・意見を表現できる人、交換できる人
・場をよくしたいという気持ちで集える人

これからはこんな人と出会い、一緒に楽しむことにしよう。
人を嫌いになるって最高だ。いいことばかりではないか。知らなかった!

結局のところ、
その人のポエム的な投稿が原因ではなく、「もともと興味がない人に興味のあるふりをしてきた自分に限界がきただけ」だったようだ。

誰かを嫌いになること自体は悪くない。なんでこんな簡単なことに今まで気がつかなかったんだろう。それはずっとずっと目をそむけていたからだ。悪いことしている(と思い込んでいる)自分から。さらにいうと、その態度を直接ぶつけたり、意識的な意地悪をしそうな自分が怖かったんだ。本当は今以上に自分を嫌いになるのが一番怖かったのだ。でもそれは全部勝手に頭でつくった幻想で、実際はそんなことにはならなかった。

コツは、いままでの真逆をやること。今回の場合、嫌いな人を嫌いと認め、嫌いなところを思いっきり出したこと。わたしがわたしを見守り、励ました。それだけなのだ。

とはいえ、実際のところ一人ではなかなか難しい。わたしは11年かけてゲシュタルト・アウェアネス・プラクティスで実践してきた経験が、期せずしてこの土台をつくってくれたのだなぁとつくづく思う。そしてエネルギー理論を探求してきた結果、自分の望むほうへとゆるやかに動かせることが得意になった。自分のこの特性を生かして困っていたり、一人でしんどさを感じている人が楽に自分の答えを見つけられるセッションをいまつくっている。

これからも「自分」というおおいなる大自然に湧く、感情の泉は枯れることはない。この観察はまだまだ続くだろう。そんな人生の旅のあり方をわたしはけっこう気に入っている。


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