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つれづれ雑記*楽しみに待つ、という話*

 昔から、待つ、ということが苦手。
 
 この「待つ」は、レジや病院受付の順番待ちとか待ち合わせの場所で人を待つ、ことではない。
 それについては大して苦にならないし、待たされるのにはいろいろと慣れているほうだと思う。

 私が苦手なのは、waitingではなくlooking forward to。何かを楽しみにして待つこと。

 楽しいことを待つのが苦手?
 どうして?

 そうなのだ。普通に考えると少し奇妙かもしれない。
 私がそうなったのにはちょっとした理由がある。

 「楽しいことを準備して待つ」のは楽しい。
 そしてそれは、どうかするとその楽しいことそれ自体よりもずっと楽しい、ということに私が気がついたのは、いつのことだったか。

 小学生の頃の遠足とか社会見学とかの学校行事。クラスの友達とバスに乗って、行ったことがないところにいくのはとても楽しみだった。(運動音痴だったので運動会はあまり楽しみではなかったが)
 「おやつは200円までね」と先生に言われて、100円玉を2枚握りしめ、近所の小さなスーパーに友達とお菓子を買いに行く。(こういうときによく行くのは駄菓子屋さんなのだろうけど、我が家の近くには駄菓子屋さんがなかった)
 
 前の夜、いつものランドセルではなくリュックに、レジャーシートや遠足のしおりやタオルやポケットティッシュを入れて、脇のポケットには小さな紙袋にビニル袋を入れた「エチケット袋」も念のために用意して。

 当日の朝は、作ってもらったお弁当と水筒を入れて、おっと、昨日買ったおやつも忘れずに。

 そうして、皆で連れだって学校へ向かう。
 教室で先生が本日の注意事項をあれこれ喋っているけど、ドキドキワクワクの私たちは誰もあまり真剣に聴いてない。
 校庭に並んでいるバスにクラスごとに乗り込んで、いざ出発。

 このあたりから、私はぼんやりと思うのだ。
 これで「楽しみに待つ」のは終わり。これから本番のお楽しみが始まる。始まってしまう。
 行って帰ってきたら、あの楽しかった「待つ」時間はもうないのだ、と。

 そう思うと、この楽しいはずの時間の隙間に、何となく寂しい風が吹いてヒヤリとした。
 「楽しみに待つ」という楽しみの、代価がこれなのだと悟る。

 それでも、その楽しみが実現した場合はまだいい。待つ楽しみがなくなって寂しくなったとしても、当日が楽しかったということは残るのだから。
 でも、何らかの事情で実現しないときもある。あれだけ楽しみに待っていたのに、天候とか思いもよらない病気や怪我で、今回は見送り、となることもある。
 それがたまらなく嫌なのだ。
 自分のことはまだ、笑いに変えることもできるのだけど、他の人の落胆や失望を見るのがきつい。
 別にこれはいい人ぶってるわけでも、実際に私がいい人なわけでもない。自分の落ち込みは自分でコントロールできるけど、他者の気持ちという私には制御できないものが、ものすごく痛くて刺さる、それだけのことなのだ。

 それと関連があるのかどうかは、わからないけど。
 私は、よく能天気で楽天家に見られる。この、何も考えていないようなボーっとした見た目のせいかもしれない。が、実は決してそうではない。(いや、能天気であることは間違いはないのだけど)
 以前につぶやき記事にも書いたことがあるが、私はこれから何かが起こる場合、いつも最悪、そこまででないとしても、少なくとも下から2番目くらいを予想する。
 そうすれば、もしそうなっても心構えが出来るし、もしそうならずに危機(?)を逃れたら安堵感が倍増する。
 これは悪いことの場合だけでなく、これから嬉しいこと楽しいことが起こるはずの場合も、逆にそれが空振りに終わる残念な場合をも予想しておく。
 そうすればやはり、空振りのときの心づもりが出来る。そして万が一上手くいったら、ものすごく嬉しいではないか。
 もっとも、その用心によって「待つ楽しみ」が多少削がれてしまうのは否めないかもしれないが。
 
 昔から大好きで何度も読んだ「赤毛のアン」シリーズのヒロイン、アンは、この「楽しみを待つ」天才だった。
 何か楽しみなことがあると、たちまち有頂天になってしまう。

「何か素晴らしいことがおこると思うと、あたし、想像の翼に乗って飛び上がるの。
 それで気がついたときにはドサンと地面に落ちているのよ」

 そんなアンを、母親代わりのマリラは心配する。
 人生の喜びも苦しみも3倍も強く感じられるアンを見ているマリラは、アンがこれから先、運命の浮き沈みの中でどんなに苦しい思いをすることがあるかと思うと不安になるのだ。
 
 私にはマリラの気持ちがとてもよくわかる。
 
 でも、そのあとで著者モンゴメリ女史は書いている。
 
 しかし、人生の苦しみを強く感じるものはそれと同じくらいに喜びも強く感じるものだ。
 それで釣り合いはとれていることをマリラは知らなかった。

 そうかもしれない。
 私も最近では、「楽しみに待つ」というのはおそらく人だけに許される大いなる幸せなのに、それを充分に味合わないのはもったいないかもしれない、と思ったりする。
 というか、近頃は、楽しみにするのと悪いほうに予想するのとの按配を取るのが上手くなり、もし外れた場合でもダメージをあまり受けないようにバランスが取れるようになった(ように思う)。
 
 ただ、自分の場合はそれでいいが、他の誰かが何かをものすごく楽しみにしているのを見ると、今でも少し心配になる。相手に気づかれないように心密かにヤキモキする。
   
 大丈夫かな。
 いや、たぶん大丈夫だろうけど。
 どうか大丈夫でありますように。
 
 と、私の中のマリラがつぶやく。

 
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#赤毛のアン #ただ単に心配症とも言う