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息をするように本を読む18 〜カフカ「絶望名人カフカの人生論」頭木弘樹編訳〜



 世の中にはポジティブな言葉が溢れている。
 ポジティブな言葉は人を元気にするし、背中を押してくれる。温かな光で心を照らしてもくれる。

 しかし。
 ときとして、そのポジティブな言葉がかえって辛く感じることはないだろうか。
 その光が眩し過ぎるときはないだろうか。

 学生の頃、部活の先輩が、失恋したときの対処法は暗くした部屋で中島みゆきの失恋ソングをひたすら聴くのが1番、と言っていた。

 いや、それはどうなんだ、と言う私に、落ち込むときはとことん底まで落ちた方がいい場合もある、やがて底を蹴って浮かび上がることもできるから、と先輩は断言した。(あくまで個人的見解であり、万人にはお薦めしない)

 確かに滅茶苦茶へこんでいるときには、前向きソングは少々堪えるかもしれない。

 同様にあまりにポジティブな言葉がかえってキツいこともあるだろう。
 そういう言葉を聞いても前向きになれない自分に、ますます落ち込むこともあるかもしれない。

 そんなときは、カフカの言葉が効く。

 カフカは19世紀末にプラハで裕福なユダヤ系商人の家に生まれた。
 彼が多くの作家や思想家たちに与えた影響は計り知れず、現代実存主義文学の先駆者であり、20世紀最大の作家、文学の巨人、とも評されている。
 「変身」や「城」「審判」などが有名だろうか。

 しかし、さまざまな資料から浮かび上がるカフカの実像は、そういうのとはちょっと違う。

 カフカは、生きているあいだに成功させたことはひとつもない。
 何かをやり遂げこともほとんどない。
 長編小説を書こうとしたが、途中で行き詰まり、全て未完。
 残されている彼の書簡や日記に書かれているのは全て愚痴、それも社会や政治、国への抗議などという大きいものではなく、家族や仕事への不満、自分の性格、不健康、不運などを嘆く、ごく範囲の狭い(失礼)弱音と呼ぶようなものばかりだ。

 彼の唯一無二の友人にして、最大の理解者、マックス・ブロートはカフカへの手紙の中でこう書いている。

『君は君の不幸の中で幸福なのだ』

 カフカほど、ポジティブに「ネガティブな人生」を送った人はいない。

 この本にはそんなカフカのネガティブな言葉が溢れている。


 未来を悲観してカフカは言う。

『ミルクのコップを口のところに持ち上げるのさえ怖くなる。そのコップが、目の前で砕け散り、破片が顔に飛んでくることも、起きないとは限らないからだ』


 人生を悲観してカフカは言う。

『ぼくはひとりで部屋にいなければならない。床の上に寝ていればベッドから落ちることがないように、ひとりでいれば何事も起こらないから』


 自分の心の弱さを悲観してカフカは言う。

『将来に向かって歩くことは、ぼくにはできません。将来に向かってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです』


 結婚を悲観してカフカは言う。
 
『誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手と一緒に生活することはできない』


 よくもまあ、ここまでありとあらゆることを悲観的に考えられるものだと思う。

 でも、カフカはそういう自分から逃げない。
 前を向けない、何もかもをネガティブにとらえてしまう自分を否定しない。
 その証拠にカフカは、ここまで自分に絶望していても、自分から自分の人生を終わらせようとはしなかった。

 痛々しい、を通り越して滑稽に見えるほどネガティブで後ろ向きでありながら、カフカは生きることをやめはしなかったのだ。

 果たして、カフカは強い人なのか、それとも弱い人なのか。
 

 もし、絶望とまではいかなくても、何だかうまくいかないとき、自分の存在がどうしようもなくちっぽけに感じられるとき、周囲の友人たちが眩しく見えて仕方がないとき、この本を手にとってみてはいかがだろう。

 もしかしたらカフカのネガティブな言葉たちが、疲れたその心にそっと寄り添ってくれる、かもしれない。
 そのあまりにネガティブな言葉たちに、失礼ながら笑えてきて、かえって元気が湧いてくる、かもしれない。(あくまで個人の見解です)
 


 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。


 ただひたすらに真っ直ぐ、自らのネガティブを貫いた20世紀の偉大なる巨人カフカと、彼が残した日記や雑記帳を後世に伝えてくれた彼の友人ブロートに、深く感謝する。


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