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諏訪頼重の辞世 戦国百人一首85

信濃の戦国大名で、諏訪氏第19代当主だった諏訪頼重(すわよりしげ/1516-1542)。武田信玄に切腹させられた男であり、且つ信玄の死後に武田氏を継いだ武田勝頼の外祖父でもある。

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おのづから枯れ果てにけり草の葉の主あらばこそ又も結ばめ  

自然に枯れ果てた草の葉であっても、主がいるなら
(私が死んだ後でも)また芽を結ぶことだろう

諏訪氏は、代々信濃国の諏訪大社上社の大祝(おおほうり/心霊が宿る現人神)という最高位の神職で諏訪郡の領主を司った家柄だった。

父の頼隆が1539年に亡くなった後、頼重は祖父の頼満から後継に指名されて諏訪家の 家督を継いでいる。当時、甲信越地方は諏訪氏のほかに武田氏、上杉氏、北条氏、そして今川氏ら強豪大名たちがひしめき、気の抜けない状況が続いていた。

1535年、祖父の頼満は甲斐の武田信虎と和睦した。
1540年に和解の証しとして頼重が信虎の3女・禰々を娶り、諏訪家と武田家は婚姻関係が結ばれている。

1541年には、諏訪頼重が武田信虎や北信濃の村上義清らと組み、信濃の小県郡(ちいさがたぐん)に侵攻。連合軍は、5月の海野平合戦で信濃豪族・海野棟綱を破って上野国へと追放している。

その後武田家内で波乱が起きた。
6月、嫡男の武田信玄(晴信)や家臣たちとの関係が悪化していた当主の信虎が、駿河に追放されたのだ。
そして新たに甲斐の国主となった信玄は、信虎の方針から翻って諏訪氏が支配していた諏訪郡へ本格的に侵攻してきた。諏訪頼重の妻は信玄の妹の禰々であり、夫婦の間には嫡男・寅王丸も生まれたばかりなのに、である。

約束を破った信玄が一方的に卑劣だったのでもなさそうだ。
実は、頼重は武田家の信虎追放騒動があった最中、小県郡に侵攻してきた関東管領の上杉憲政と勝手に和睦して領土分割を行っていた。
それが信玄の諏訪氏との同盟破棄の理由であり、彼なりの言い分があった。

信玄と反諏訪勢によって攻められた頼重は、1542年の桑原城の戦いで降伏した。武田側は諏訪頼重の命を保証してその和睦を受け入れる。
頼重は、弟の頼高と共に武田氏の本拠である甲府の東光寺に幽閉された。
ところが、信玄は約束を反故にして頼重を自刃させたのである。
頼高もその後自刃となった。

頼重の辞世は、
「自分がいなくなった後も(宗家の主がいる限りは)枯れ草は芽吹く」
と、残された弟に望みを託したかに読める。
しかしその弟まで自刃させられた。

さらに、もともと諏訪氏は寅王丸が跡を継ぐ予定だったが、信玄はこれも許していない。頼重の娘・諏訪御寮人が信玄の側室となっており、その息子として誕生したのちの武田勝頼に諏訪家を継がせている。
勝頼の「頼」の字は、頼重の「頼」と共通の諏訪氏の通字なのである。
武田家の通字「信」ではない。
結果的には勝頼が武田家の家督を継ぐことになったのではあるが。

ともかく、19代続いた諏訪惣領家は頼重・頼高兄弟の死により実質上滅亡したのである。

だが、諏訪氏の血が全く絶えたわけではない。
頼重の叔父の家系がのちに諏訪家を再興している。
それを残された枯れ草の根から芽吹いたものだと考えれば、頼重の辞世は正しかったと言えよう。