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筒井順慶の辞世 戦国百人一首㊼

彼には、明智光秀と羽柴秀吉が対決した山崎の戦いの時に、洞ヶ峠で日和見をしたという不名誉な逸話がある。
だがそれは事実ではない。
筒井順慶(1549-1584)はずるい奴だと多くの人に誤解されている。

筒井順慶 47

根は枯れじ筒井の水の清ければ心の杉の葉は浮かぶとも 

根まで枯れることはないのだ、筒井(井戸)の水は清いのだから。
たとえ心を過ぎ(杉)ゆく種々の思いがあったとしても。

もともと筒井家は興福寺の衆徒つまり僧兵が大名化した家だ。
筒井順慶は松永久秀との抗争を繰り返していた戦国大名である。

順慶は明智光秀の斡旋で織田信長に臣従した。
長篠の戦いにも参加し、松永久秀を討った信貴山城の戦いでは先鋒を務めるなどしている。

実は、順慶は茶の湯や謡曲、歌道などに秀でた教養豊かな武将だった。
同様の教養人・明智光秀とは縁戚関係にあり、光秀の仲介があって信長の配下となった経緯もあるため、彼とは友人のような仲でもあったのだ。

そのため、1582年の本能寺の変後に光秀からは、味方になるよう誘われた。
しかし、順慶は一度は光秀に協力する動きを見せたが、結局は信長の仇を討とうとする羽柴秀吉に従う道を選び、その意志を秀吉に表明していた。

光秀と秀吉との山崎の合戦の際に、順慶は洞ヶ峠には行っていない。
行ったのは、明智光秀である。

光秀は順慶の援軍を期待して洞ヶ峠に布陣して順慶の動きを見守っていたのだ(秀吉についた順慶を監視・牽制するためだという説もある)。
しかし、順慶は動かず、光秀に加勢することはなかった。
そしてなぜか「順慶が洞ヶ峠で日和見をして戦を傍観していた」という話になってしまった。

明智光秀が山崎の戦いで羽柴秀吉に負けたのは、期待していた筒井順慶や細川幽斎らが味方してくれなかったことが致命傷だったと言われる。

光秀死後は秀吉の家臣となり、順慶の大和の所領は安堵された。
しかし、その2年後の小牧・長久手の戦いに病気をおして出陣。
その後大和に戻ってから病死してしまった。享年36。

そんな彼の晩年のことを考えながら辞世を読んでみると、考えさせられる。自分の心が「清い水」と言いながらも、同時に歌に詠んだ「心を過ぎゆく種々の思い」とは何だったのだろうか。
友人光秀の加勢につかなかったあの1582年のことを、心苦しく思ったのだろうか。