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中村文荷斎の辞世 戦国百人一首80

この人物を知る人はなかなかの歴史通かもしれない。
柴田勝家が切腹した時、勝家の介錯を行った人物、それが中村文荷斎(?-1583)である。『戦国百人一首』の78の市79の柴田勝家に続き、賤ヶ岳の戦いで敗れた人々のうち3番目に紹介する人物だ。

80 中村文荷斎

契あれや涼しき道に伴いて 後の世までも仕へ仕へむ

家臣として契ったならば、涼しい道を付き添って後の世まで仕え尽くそう

中村文荷斎は、柴田勝家の重臣だった。
出自などについては詳細が明らかになっていない。

1583年に賤ヶ岳の戦いで柴田勝家や妻の市が北ノ庄城で自刃したときに、勝家と市の介錯を行った。
彼らが辞世を詠んだのと同様に、文荷斎も上記の潔い辞世を残している。

特に細かく説明しなくても、この辞世の意味は非常にわかりやすい。
主君と決めた人(勝家)に後の世まで「涼しき道」を共に歩むと言い切った。この歌には突き抜ける力がある。

「涼しき道」とはどんな道だろうか。
「信じる道」だろうか。「進むべき道」なのだろうか。
主君と歩む「明快な道」なのだろうか。
「涼しき」という言葉に、一種のさわやかさ、力強さ、そしてほんの少しの危うさが感じられるようだ。

勝家と市を介錯し、主君とその妻の死を見届けた後に彼もまた自刃した。

柴田勝家と中村文荷斎との間には強い絆があった。
その証拠に、彼の娘は勝家の養女となっている。
娘はのちに下総の北条氏に仕えていた高城胤則(たかぎたねのり)に嫁いだ。
しかし、その北条氏も1590年の小田原征伐のときに、豊臣秀吉の軍の圧倒的な兵力の前に降伏。
のち、胤則は家名再興がかなうことのないまま病没している。

父親も娘も共に秀吉に苦しめられたわけだった。