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完璧な人とは?

これまで私は、社会の中でも底辺、仕事が出来ない、役に立たない上に面倒な問題を起こす人、というふうに自分のことを思ってきました。

実際に他人からそれらのことを面と向かって言われたことは無いけど、それとなく役割を与えられなかったり、呆れた顔で嗤われたりすることで、「ああ、やっぱり……」と思い込み、その気持ちを強化してきたのです。

前回の記事で、生活と社会に関する『手続き記憶』が常識以上に欠如していることが原因なのだろうと察したことを書きました。
そして、幼少期に親から否定され続けたことが、手続き記憶獲得のための努力をするモチベーションを維持することを妨げ、さらに幼少期の見捨てられ不安によって死を予感するような恐怖を味わってきたために、人からの否定=凍りつき反応という神経回路が出来上がってしまい、苦痛に耐えて努力するということが難しくなっていたということがわかってきました。

そもそも、私の未熟さを批判した親や、私の行動を叱責した教師や、私の仕事のやり方に不満を漏らしたり、非難したりした同僚や上司は、実際どれほど完璧だったというのでしょうか?

まずは私の親ですが、確かにコミュニケーション力に優れ、情報通であり、仕事も出来る方です。仕事と家事を両立させようと頑張ってきた人です。
しかし、本当の意味で信頼できる人、仲の良い友達はいません。
私の記憶にある母が、これから友達と食事に行くとか、映画を観に行くとか、個人の趣味で楽しんでいるところを見たことが無いのです。
仕事にしても、子どもの私から見たらとても忙しく立ち回っているように見えましたが、実際職場でどのくらい仕事が出来ていたのかはわからないのです。
仕事と家事を両立させる……というよりも、仕事と家事しか知らない、興味がないという感じでした。
豊かな人生かといえば、とてもそうは思えません。

私に厳しいことを言ってきたり、上から目線で接して来る人の多くが、『自分に余裕が無い』人ばかりだったように思います。
上から目線で来られると、相手はまるで、私の出来ないことを完璧に出来ているかのように思えてしまいます。
相手がすでに出来ていることを、私が出来ないことが「情けない」「不甲斐ない」と感じてしまうのですが、実際には相手が出来ているかどうかを確認する機会はなかったのです。
強く言ってきた相手に対して、「じゃあ、あなたは出来るんですか?」などと反論するのは勇気が要るし、その部分だけに関しては完璧であっても別の部分が出来ないということもあり得るからです。

そう考えてみると、誰かの批判をする人は、全体的には欠陥が多くて不完全であるがゆえに、自分が完璧な部分について出来ない人を批判したくなったり、完璧にできないからこそ、自分以上に不出来な人を批判したくなるのではないかと思えます。

そもそも自分自身が完璧と思っていて、それに満足しているのなら、誰かの行動など、どうでも良いのです。
完璧な人は、誰かの助けも理解も要らない。
自分だけで自分の人生を完結できるので、誰かを批判したり叱責したりする必要もないのです。

それなら組織で行動しなくてはいけない時は、自分だけで完成している場合じゃないので、どうしても他人を批判したくなるのでは?
という疑問もわきます。
確かに組織に属している時は、他人のことに目を向けないわけにもいきません。
しかしそもそも、組織というのは完璧になり得ないのです。価値観の違うもの同士が集まっていれば、方向性が一つになることはとても難しい。
だからみんなが、どこか欠陥を抱えているのです。
残念なことに、社長であれ、『人間』が組織のコンプライアンスを作る限り、どうやっても不完全になり、それが本当に成果として現れるかどうかを検証できる仕組みはできません。
もしAIが診断したとしても、入力する前提条件を人間が考えている限り完璧にはならず、むしろある部分だけ完璧で、ある部分は欠落しているという、現実からかけ離れた結果になってしまう危険性も大きいでしょう。

つまるところ、『完璧』の基準も、人間が考えているのですから『不完全』なのです。
誰かにとっての『完璧』は、誰かにとっては『不完全』。
それをさも真理を知っているかのように、他人を批判する。
これこそが不完全な人間の、最も愚かな行為なのかもしれません。

この世に、人を批判できるほど『完璧な人』は居ない。
批判されやすい人は、単に『反論して来ないから』『言いやすそうに見えるから』という理由だから。
おそらくそれが『真実』なのでしょう。

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