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『遺書』 63 「それでは母が浮かばれない」

[前回からの続き]

中身のない不気味な封筒が投函されるのは、何年間か続いた。けれどそれは、いつの間にか、いつしか、なくなった。最後に差し込まれたのがいつかなんて、いちいち記録をしていないし、おぼえていたくもない。気持ち悪いので、封筒はいつも、破いたり燃やしたりして処分してきた。

幼い頃から私と、私の母を、虐待してきた、あの父親。"面前DV"を毎日やっていたあの男。私が小学校にあがって成績が普通ではないことにようやく気づくと"教育虐待"に切り替えたヤツ。自らの妻に、"治療する"という建前を言いながら実際には痛めつけてきた、そして――手にかけた。
私から仕事も家も奪い、逃げる私に暗黙の圧力をかけることをやめない、"毒親"……。
私に送られるはずの役所の課税通知を、自分宛にして横取りし、盗んでいた。税金の通知を受け取りながら、滞納した男。

なぜ"封筒"が止まったのか、私にはわからない。わかりたいとも思わない。たぶん、人を使って嗅ぎ回る余裕がなくなったからじゃないかしら、とは思うけれど。
で、これからはどんな手を使ってくるのか、なにを思っているのか、得体が知れない。

さて、この"シェルター"は元暴力団事務所。昔に何があったのか、想像を超えている。あの壁に塗られた塗料の下には、もしかすると血があるのかもしれない。けれど、いちいち詳しく確かめたくもない。

床についた塗料は、"リンレイ オール 床クリーナー"でワックスごと剥がした。業務用のワックス剥がしだと量が多いし、身体にもっと悪そうだったから。
壁紙には、家庭塗料はアサヒペン。壁紙に塗るための塗料があるのだ。
そうやって、自力で清掃してリフォームみたくはした。

胆振東部地震で大停電したこともあった。貯水槽に水が汲み上げられなくなって断水もした。

電力会社を替えて"自然エネルギー100パーセント"の、時価で変動する業者にしてみたら、電力不足で高騰してしまい、需給と価格を毎日確認して、思うように電気がつかえなくなったこともあった。

人知れず、大変な暮らしが続いていた。

ある日、家庭裁判所から特別送達が来た。
地元の家裁ではない。
とっくの昔に亡くなっている、母方の祖父。彼の遺産の分割協議のために、母の親類が弁護士を立てて、調停の申立てをしたからだった。

母方の祖父が亡くなって。法定相続割合は、彼の妻が半分、残りは子に均等割合。
けれどその後、娘であるところの私の母が亡くなった。
その、亡き母の法定相続人は、夫と、娘である私。

けれど、私の母の命を奪ったのは、夫である、私の父親。その事実は表には出していないし、警察は"自殺"で処理して"終わった"ことではあったけれど。

だからなんなのかって、私の祖父は遺言で相続の指示を書き遺していなかった。相続は協議して決めないといけない。
けれど、協議も何もまだしたくないうちに、法定相続人の一人である私の母が死んだ。
殺したのは、彼女の夫である。そしてそのことは、私だけではなく故人の親類も気づいていて、だからこの犯人が、憎い。顔も合わせたくない。(私も同じ。ヤツには合わせられないわけだけど。)

彼らはいいかげん、相続割合を確定させたいのだ。ヤツと顔を合わせずに。
弁護士を立てて代理人にして、調停の申立てをしてきた。"相手方"は、(相続人を殺した)配偶者であるあの男が、まず筆頭。それと、相続人の子である私。

家裁で調停手続をするという話なんだけれど、私は現地には行けない。
私に、現地に通う旅費を出す余裕がないというのもあったけれど――
互いに関わりたくない。
こちらとしてはずっと、殺人犯の父親の件で向こうを巻き込みたくない。向こうには、まもるべき平和な暮らしがある。
向こうは向こうで、憎き殺人犯の家と、そこの娘と、関わりたくない。
お互いに避けてきた。

弁護士を立てて代理で出てもらうようなお金もない。

「調停には出られないので審判してください」と、家裁に回答した。

それから少しのやり取りが書面であった。
私の母は、(相続人の法定相続人である)私の父親が殺したのだということも、家裁には書いて送った。相続人を殺した法定相続人にほ、相続をする資格が、本来はない。(けれど警察が"自殺"として処理してしまったから、自首もしないでしらばっくれているヤツは、裁かれていない。)この男が相続をするのはおかしい。
それは裁判官や書記官は読んだだろうけれど、一般の民事訴訟とはちがって、家裁の手続は非公開。当然だけれど、調停委員を含めて彼らには守秘義務がある。私の書面そのものは、"申立人"たちや代理人弁護士に直接は見せなかっただろうけれど、内容あるいは意思は、裁判官が説明しただろうはず。

しばらくして家裁から、調停案が届いた。

――法定相続割合そのまんまだった。

呆然とする。

たぶん、"申立人"のほうも不本意だっただろうと思う。

けれどともかく、私はこの"案"に対して回答した。

「それでは母が浮かばれません」

母が亡くなってあのとき、葬式をやりたくないと言ったヤツへ、祖母は言った。
「それでは娘が浮かばれない」

まさかこんなかたちで、私も祖母と同じことを言うことになるとは……。

[次回に続く]