あえて逆の立場から考えることの大切さ
ジェンダーについて自分なりにいろいろと発信していると、やはりいろいろな意見をいただくことがあります。
それ自体はとても嬉しいことだし、かかわるお互いにとって有意義なことだと思いますが、ときには誤解と偏見にもとづく意見だったり、かなり一方的で攻撃的なものだったりするときがあります。
私はふだんはわりと冷静な性格なほうだと思いますし、とくに書くという行為の際には十分に表現に気をつけているつもりですが、それでも過剰な意見を一方的に受けると凹むこともありますし、逆に私の言葉によって結果的に傷ついてしまう人もいるのかもしれません。
昨年、商業出版したときは、その傾向が顕著でした。
さすがに私の言葉によって傷ついた人からの訴えのメッセージはありませんが、ひどく侮蔑に近い攻撃を受けたこともあります。
人間ですから、素直に怖いですよね。
私たちのような、そんなに売れているとはいえない書籍でさえですから、一般的にメディアに露出されている人のことを思うと、素人ながら怖くなってくるときがあります。
私は、ある意見を主張するときは、必ず逆の意見や立場になって自分を置き換えてから、表現をするように心がけています。
もちろん、すべてのケースでそうできるわけではありませんし、もとより努力が不十分なことはあると思いますが、できるかぎり気をつけています。
それでも、攻撃的になる人はいらっしゃいます。
たとえば、で恐縮ですが、私たちの本を読んでいただいても、一方的で過激な主張をしている箇所というのは、ほとんどないと思います。
参考までに、アマゾンのレビューなどを見ていただいても、そのようなコメントはいっさいありません。
おおやけにメールや手紙などでご指摘いただいたこともありません。
でもなぜか、noteやSNSでは、ときに荒れることがある。
これは、ほんとうに怖いことです。
だれが、どんな立場にたって、どんな意見を主張されるかはもちろん自由ですが、脅迫的に自由な言論ができなくなることは、あってはならないと思います。
ちなみに、本には書いていませんが、たとえば、私は同性婚とか夫婦別姓といった流れにかんして、無条件で賛成で一直線に推進することが素晴らしいとは思っていませんし、そのような意見を書いたこともありません。
毎週、noteを読んでくださっている人なら理解していただけると思いますが、少なくともnoteだけをとってみても、ここ3~4年間、ずっとおなじスタンスなのです。
でも、「ジェンダー」について発信している奴だ!という“固定観念”につられて、具体的に主張もしていないし、触れてもいない誤った前提にたって、批判してくる人もまれにいます。
世の中の一定数の人は、ジェンダーは政治的な主義主張だと、勘違いしている向きがあります。
だから、ジェンダーについて前向きに発信する人はリベラル的だし、そうでない人は保守的。逆にいえば、保守はジェンダーについて前向きに意見してはいけない。こんなふうにとらえがちです。
とても、不思議なものの考え方だと、つくづく思います。
あえて逆の立場から考えることの大切さ。
このことの重要性について、あらためて強く感じる、今日この頃です。
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。