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【読書感想】「放課後の文章教室/小手鞠るい」

ツイッターの海を旅して私のもとへやって来てくれた小手鞠るいさんの約40年前の素敵な詩がここ数日の学びのきっかけでした。
私の憧れていたやなせたかし先生の詩の雑誌「詩とメルヘン」。
小手鞠さんは当時実名の川滝かおり名義で「詩とメルヘン」に詩の投稿をされていました。
ということをそのツイートで知ったわけなのでした。

添付されていた写真には「詩とメルヘン」1982年3月号に掲載された小手鞠さんの「覚えておいて」という詩と林静一さんの素敵な絵が収められていました。

私は憧れの「詩とメルヘン」に触れられた(ような気がした)ことや小手鞠さんと林さんの詩と絵の融合の素晴らしさに感動が抑えきれなくなりその思いをお伝えしたく小手鞠さんにメッセージを送信しました。

小手鞠さんはご丁寧に返信くださり、私にやなせたかし先生のことや「詩とメルヘン」のことを教えてくださったのでした。
私が「詩とメルヘン」についてもっとくわしく知りたいことを察してくださって「優しいライオン やなせたかし先生からの贈り物」という本を紹介してくださいました。

それらのやりとりをツイッターの引用リツイートや返信などでさせていただいていました。

私は恐縮と嬉しさが入り混じり競り合いながらもやはり嬉しさが勝り小手鞠さんのご厚意に甘えてしまっておりました。
さながら交換日記…いや、公開日記は私にはあまりにも光栄で刺激的で有益なものでした。

憧れの詩の雑誌「詩とメルヘン」の舞台裏というか知ることの出来なかったお話を聞かせてもらえているのだと思うとばいきんまんではないですが「めだまがらんらん」でした。

やなせたかし先生と交流の深かった小手鞠さんしか知り得ないお話は小手鞠さんを介してやなせ先生からお言葉をいただけている錯覚にさえ陥っていました。

先日も小手鞠さんから参考になればと親切にお心遣いいただき「放課後の文章教室」をすすめていただいたのでした。

ティーンエイジャーの若いこどもたちに(も)向けた小手鞠さんからのことばを書くことのアドバイスがギュッと詰まった一冊でした。

本厄の83年生まれの私が読んでもいいものなのだろうかとなんだか若い子たちに申し訳ないと思いつつ文章を書くことのふりだしから読み進めていきました。

思えば小手鞠さんが「詩とメルヘン賞」を受賞された82年3月号の年の1年後に私は生まれたのだと思うと詩とやなせたかし先生と小手鞠さんとの歴史の上にそれぞれの物語(人生)があり、何も知らずに「アンパンマン」を見ていた自分がその世界線にも存在していたことがなんとも不思議なものだと思わずにはいられないのでした。


【文章を書く】という大きなくくりには枝分かれして、さぁ何を書く?となりますが、それが小説だったりエッセイだったり童話、絵本、短歌、俳句、なんでもいいんです。
そして詩であったりと、それらはすべて違うけどすべてに共通するものが「ことば」なのでした。

わかりやすく書かれてある質問の答え(小手鞠さんの考え)はどんな堅苦しく武装した難しい論文よりも考えさせられるものがあると思いました。
私はページをめくりながらその手を何度も止め、また数ページ戻っては考えていました。

それらは今の私に見習えることか、実践できているか、できることか、出来ないんじゃないかとかしたくないことだとか、したくないと思う考えを変える考え方をしないといけないのではないかとか…。
時に堂々巡りしては迷い、来た道に戻ってきたり…。それは文字通り迷宮なのかなと痛感して唸って天井を見上げていました。


やはり一番気にかかったのは詩について。
ある予備校生さんからの質問でした。

何か書きたい気持ちはあるのに何を書けばいいのかわからないその予備校生(世良さん)に小手鞠さんは「詩から始めてみて」と声をかけていました。

間口が広く誰でも受け入れてくれるのが詩。
私も詩とは…と、よく考えてきましたし、今も考えます。これからも結局考えつづけていくと思うのですがそれでも詩って一番自由で人そのものだなと思うのです。
なので迷っているなら詩から始めるのは納得でした。

私はもともと漫画を描いていて(小学生の頃)それがいつしか映画のシナリオになって、長編から短編へ形を変え、辿り着いたのが「詩」でした。
なので、「詩」から始まったのとは反対に「詩」に戻ってきたと解釈しました。
それでも辿ってきたシナリオも漫画も今の私の「詩」の中にあります。
だから私は「詩小説」なるものや「エッセイ」も書きたくなるのです。

「エッセイ」と「小説」の違いも
「詩人」という肩書の有無も
すべては「逆もまた真なり」なのですね。

答え…なんて、どっちかではないのですよね。
どっちもであってどっちもでない。
え?結局どっち?と思われるだろうけど書いているとすごくこの考えがわかると思うのです。

私は詩人と呼ばれると心では詩人ではないと思っているし、それでも詩を書いている人は詩人なんでしょ?と、色んな人からしてみればそこをあえて否定することも違うと思うので…。

私は小手鞠さんと同じく言葉を書くのが好きなのです。
文章、文を書くのが楽しいのです。
それが特に詩であるということ。そして詩だけではなく他にも書くということ。頑なに詩しか書かないとはならないし、手紙を書くことだって好きなのです。

小手鞠さんは長い文章を書いてくれると嬉しくなると綴っておられました。
手紙やメールも長くなると相手に悪いんじゃないかと遠慮してしまうけれどそれだけ時間を割いて書いてくれたということなのだからと、嬉しいと小手鞠さんは仰っていて、本当に同感!と、頷きながら小手鞠さんへの不躾な身の程もわきまえていない私のツイッターでのやりとりを正当化させて勝手に安堵していたのでした。


言葉を信じながら疑う。疑いながら信じる。
愛と希望の言葉でさえその姿勢を忘れないことも心に留めておかないといけないことも決して悲観的なことではなくたいせつなことだと思いました。

小手鞠るいさんからここ数日かけがえのない学びを与えていただいている。
やなせ先生のことば(そのどれもが詩)を継いでおられる偉大なる作家の小手鞠さんに。

あまりにも膨大な数だけれども少しずつでも小手鞠さんの出版された本を読ませていただこう。
そして小手鞠さんの詩集も読んでみたい。
本著に収められていた「言葉だけが」という小手鞠さんの貴重な詩を読んでその思いは強まりました。



あの予備校生の世良さんは今、詩を書いているだろうか…。


簡単なものほど難しい。
卵焼きのように。

基本的なことが難しい。
初心はついつい忘れてしまう。

それらを問われればあなたなら答えられるだろうか?私ならどうだろうか?
やなせたかし先生の「ところであなたは?」が頭をよぎったのでした。





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