【エッセイ】恥美と下ネタ〜笑福亭鶴光と菅田将暉のエロの違い〜

NHKのドラマで「生理おじさん」というパワーワードと出くわした。
ドラマの中で生理用品の会社に勤めている原田泰造さんが新商品の記者発表会でプレゼンをしていた。そこで世の中の女性の苦しみに寄り添いたいと熱く語るのだがその熱量がひょんな形でバズってしまい「生理おじさん」と呼ばれるようになった。

深夜の再放送でたまたま目にした「生理おじさん」だったが、自分には絶妙すぎるタイミングだったので偶然とはおそろしいものだなと感慨深くなった。丁度その時私は際どい繊細な題材で何か書いてみたいと思っていたのだ。

生理の辛さは女性にしかわからない。
どんな例え話や疑似体験をしたからといっても女性の痛み、苦しみはわからない。
ふと、そこで思ったのが男にも生理はないのかということだった。

まぁ、ないのだが、女性の生理の意味とは出産への体の準備反応という自然現象(本能的なもの)だとするなら、男には夢精が比較的近くに該当するのではないかと考えた。
ちなみに夢精限定とする。
夢精は夢を見ている時(眠っている時)に起る生理現象である。本人には制御出来ない。
よって夢精は特別なのである。
女性の生理と違って夢精には痛みは伴わないがこれも種の保存という人間の自然の理屈という点ではあながち間違いではないように思うのだが…。
とはいえ男が全員夢精の経験があるかというとそうでもないもので、夢精したことがない友人も私の周りにはいる。そこがやはり生理と並べて話せない弱みでもあるが、男にとってのさなぎから蝶への過程(ジブリ「おもひでぽろぽろ」)という神秘的かつ生々しい肉体の変化を象徴する代名詞が見当たらないのである。

あくまでもこれはひとつの例で、私は何も夢精について書きたいわけではない。(こんなに夢精夢精と言っておきながら)

そんなちょっとしたナイーブなジャンルから詩は書けないだろうかなどとぼんやり考えていたということだ。
だが、それはあまりにも高度な技術を要する。
その力量が私に備わっている自信などない。
デリケートな問題を言葉にするのは危険で、リスクを伴う。


官能小説はエロ本ではなく芸術(文学として)だとタモリ倶楽部であいみょんがゲスト回の時盛り上がっていた。官能小説をじっくり一冊読んだことがない私はその芸術性をぼんやりとしか思い描けないでいる。(読めばいい)

あいみょんの視点から発する官能小説のここがすごいというコメントのいやらしさのなさは秀逸でむしろ歌詞の一部のようでもあった。
他にも菅田将暉のオールナイトニッポンで菅田さんのオブラートに包まない直球の卑猥ワードも全然ナチュラルで、清々しささえ感じた。
笑福亭鶴光さんのエロと菅田将暉さんのエロは同じラジオでも違う。
一体何が違うのだろう。

ヌードのデッサン、写真、映画も芸術だ。(全てがそうではないかもしれないが)
恥美を表現したいのに美の壁を超えない限りそれは単なる卑猥なエロにすぎない。
大島渚監督の「愛のコリーダ」は芸術だ。
では映画版とドラマ版で「失楽園」は同じ原作でありながら別物に分類されるだろうか。等しく芸術だろうか。わからない。その比較の匙加減がわからない。
芸術でない自称「恥美」はこの世にはびこっている。
鶴光のエロは下ネタか芸術か。少なくとも芸ではある。恥美かどうかはまた別問題として。
この恥美の壁は相当厚い。

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