銀という名の猫がいた。
実家で飼っていた茶トラのオス猫であった。
熊に立ち向かう狩猟犬の漫画に登場する秋田犬の名前を付けたのは、その猫に強くたくましく育ってほしいと願ったからだった。
なぜ勇敢な主人公にあやかったのかも含め、その理由といきさつの経緯を銀と出逢う少し前まで遡ってみたい。
祖父母の家の裏庭に一匹の野良猫が現れた。当時二十二歳の私は家業を手伝いにほぼ毎日祖父母の家へ通っていた。いつしか私も従業員たちもそれぞれがいわゆる「餌付け」をしたものだから毎日決まった時間になると裏庭の勝手口近くにその茶トラのメス猫が現れるようになった。
ただ野良猫を不憫だからといって去勢、避妊の処置も施さないで餌だけを与えることは言ってみれば無責任なことで中途半端な可愛がりは自己満足に過ぎず褒められたことではないというのもわかってはいた。が、目の前のその猫を追い払うことも見過ごすことも私たちには出来なかった。結果私たちは後ろめたさも感じつつ毎日その猫の催促に応えた。その野良猫はある一定の距離からは決して近寄らせてはくれなかった。鳴いて餌をくれと訴えはするがその距離は最後まで縮まることはなかった。
生粋の野良猫だった。生きる術を経験で培ってきたのだろう。それでいい。触れられず少し寂しい気もしたが野良猫にとってはそれが賢明な行動なのだ。その猫はふてぶてしく肝の座った遠慮のない性格であった。あまりにも堂々としていたことから何のひねりもないが私たちは「ドウ」と名付けそう呼んだ。
ドウは暑い夏もばてずによく食べ、寒い冬も脂肪を蓄えるために沢山食べた。もともと骨太で大柄な体の猫だったが一年を通して痩せることのない丈夫な野良猫だった。
私が幼かった頃から勤務していたパートのおばちゃんの鹿島さんが「もしかしたらドウ、妊娠してるんじゃないかな」と、教えてくれたのは五月のはじめのことだった。私にはただ肥えているとしか思えなかったが酸いも甘いも嚙み分けてきた女の勘は見事的中していた。しばらく経つと見るからに身重の体になっていたドウは、お腹の命の分まで餌を食べた。そしてある日突然ドウは私たちの前から姿を消した。私たちはしばらく落ち着かない日々を過ごしドウの無事を祈った。家族のような従業員同士が皆、ドウを同じく家族の一員のように慕い心配した。
まるで初夏を思わせる白い光が珍しく木々からこぼれていた六月も終わろうとしていたある日のことだった。
「見て!ドウがいる!あと仔猫も!」
鹿島さんが裏庭の茂みを指さして興奮気味に私たちを呼んだ。
青々と密生した裏庭の茂みがガサガサ揺れていた。そこには眼光鋭いドウとその後ろにぴったりくっついて必死にドウを追う二匹の仔猫がいた。生後一か月経つかどうかくらいの小さくて幼いドウと同じ茶トラの仔猫だった。
ドウは微塵も痩せてはいなかった。何も変わらずむしろ野良猫としての貫禄が増しているようだった。鋭い目つきで以前と同じ場所にふてぶてしく鎮座していた。当然のように餌を要求していた。私たちは急いで皿にカリカリのフードを入れて勝手口のドアから少し離れた場所に置いて覗き込んでいた。ドウは仔猫をひきつれて皿に近づき餌を貪るように食べた。
それは自分が生きる為ではなく、こどもに乳を飲ませる為の強くて健気で真っ直ぐな愛の行為に見えた。
六月の雨に濡れるドウと二匹の仔猫。
七月に入って日に日に夏めいていく世界。
二匹の仔猫にとっては初めて迎える夏。その年も多分に漏れず暑さ厳しい八月だった。
私たちの気がかりは二匹の仔猫のことだった。
十月半ばも近かった。二匹の仔猫が産まれて四か月は過ぎただろうか。なにせ正確な誕生日はわからないのだ。ただ六月の終わりに再び裏庭にやって来たあの日を起点にするならば七月に入ったその頃は大体それくらいの年齢であったろうという推測である。
猫が一度に出産する数は約三匹から八匹とされている。ドウは何匹産んだのだろう。目の前の二匹で全てだったのだろうか。もう何匹か産んでいたとしたら目の前の二匹は生き残った兄弟なのだろうか。それはどんなに考えたところでわかることではなかった。それならば私ははじめから二匹だけの兄弟であったと信じたかった。
ドウはすっかり母親の顔つきになっていた。その日も二匹の仔猫に缶詰の鶏ささみを咥えて持って帰っていった。私は距離を保ってドウの後をつけた。ドウと二匹の仔猫たちは祖父母の家の近くの空き家の軒下を棲み処にしていた。二匹の仔猫の兄弟はドウの帰りを待っていた。その時既に二匹の兄弟の成長には差が生じていた。それはドウの図々しさを受け継いだ片方の仔猫はもう片方の仔猫を押しのけてドウが持ち帰った食べ物を独り占めしていたからであった。ありつけていない方の仔猫が勇気を振り絞って横から割って入ろうものなら親の敵のように威嚇され牙を剥かれていた。毎回そんな感じで奪うものだから図々しい方の仔猫は肉付きも良く大きく成長していったが、気弱な仔猫の方は食べ物にありつけないまま頼りなさげに佇んでいるだけであった。気弱な猫は体も小さく痩せ細り毛艶も悪かった。
残暑も去り、待っているのは猫にとって夏より過酷な寒い冬の季節である。
私は気弱で体の小さい仔猫は冬を越せないのではないかと不安になった。
後日私はドウがいない間に体の小さい仔猫の様子を見に行った。その仔猫にも何とか食べ物を与えたかった。黴臭い古びた木造の日本家屋の空き家の正面から奥へと息を殺して侵入した。積もった枯れ葉を踏むとパリパリと砕ける音が誰もいない静まり返った敷地に際立って響いた。図々しい方の仔猫は物音にいちはやく反応し一目散に逃げていったが気の弱い仔猫の方は全く動じることもなく近寄る私の踝辺りに顔やお尻を擦って小さくか細い声で鳴いていた。
なんて人懐っこい野良猫なんだと私の不安は一層膨れ上がった。この猫には野良猫としての警戒心がまるでないのだ。間違いなくこの仔猫はその年の冬はおろか、この先野良猫として生き抜いていくことは不可能であると確信した。
曇り空の夕方、冷たい風が首筋に吹いた。私は急に冬を感じた。
私はしゃがみこんで気の弱い仔猫の喉を撫でた。すっかり心を許した仔猫を片手で掬い上げ、両手で包み込んだ。私の目線に合わせその仔猫に「うちの子になるか?」と尋ねた。言葉の意味などわかるわけもないのに、か細い声で何度も鳴いていたのを私は承諾の返事と受けとった。
私はこの場にいない母猫のドウを思い、瞳を閉じ心の中で謝りながら大切に育てるからと誓い、その仔猫と一緒に空き家を去った。
実家の近くに借りていた私のアパートでは金魚くらいならまだしも猫はさすがに飼うことは難しく仕方なく私は実家に連れて帰ることにした。遅かれ早かれこうなることは両親も、そしてはじめての出産を終え産後療養の為に帰省していた姉も予見していたのであろう。快く迎え入れてくれた。
首もまだ座らない甥っ子の駿介とその仔猫は同じ生まれ年であった。動物病院で健康診断とノミなどの駆除を済ませ、さて名前はどうするかとなった時、あるアニメの歌が頭に流れた。頼もしい屈強な仲間の犬たちを引き連れて荒野を先頭で走る一匹の狩猟犬。銀色に輝く毛色で巨大熊と闘う強くてたくましいその秋田犬の主人公の名前は銀。兄弟猫に怯えてまともに餌にもありつけなかった気弱なこの猫に自分より大きなものに立ち向かう銀の牙を授けてもらえるようにとあやかって銀と名付けた。
これが銀と出逢うまでのお話である。
銀は甥っ子の駿介と一緒に成長していった。
沢山餌を食べドウのように大きくなっていった。
駿介誕生から一年後には二人目の甥っ子翔平が生まれた。翔平が泣いていると銀はそっと傍に寄り添い見守っていた。銀は優しい猫だった。幼い甥っ子二人がしつこくちょっかいを出してもされるがままで決して毛を逆立てて怒ったりなどしなかった。
盆や正月に家族が集まる度に二人の甥っ子が目覚ましい成長を遂げていても一番上の兄のように二人の甥っ子をおおらかに見守っていた。私から見てもその姿は仲睦まじく微笑ましい三人兄弟のようであった。
祖父母も亡くなり時代の流れに伴って家業は廃業となり祖父母の家に立ち寄ることもなくなった。人の出入りもなっくなった裏庭は新緑の季節になってもかつてのように青々と生い茂ることもなくなった。ドウやもう一匹の兄弟猫もいつの間にか姿を現さなくなったが生粋のたくましい野良猫のあの二匹ならきっとどこかでふてぶてしく生き抜いているだろう。
銀に時々ドウや兄弟猫について語りかけたりもしたが耳をピクッと動かすだけで、それを私たち人間は都合よく解釈し拾われた今が幸せなんだと思い込ませていた。実際のところはどうだったのだろうか。元は野良猫として数か月生き抜いてきた銀ではあるが生粋の家猫としてこの世に生まれてきたように思えてならなかった。銀は実家で穏やかに暮らしていた。時々窓の外を眺めてはいたが大型車の重低音やクラクション、カラスなんかがけたたましく騒いでいる音に反応して窓から逃げるように離れていた。大雨の音や雷鳴や風の唸り声にはじっと動かず物陰に隠れていた。
銀は外をこわがっていた。
時は流れ駿介の十二歳の誕生日が間近に迫っていた八月下旬のある日。
家業の廃業を機に私は以前から興味のあった珈琲の勉強がしたくて知人の経営していた喫茶店で働いていた。昼休憩に気づいた不在着信は実家の母からであった。かけ直すと母が最近銀の食欲が落ちて元気もないのだと話してくれた。駿介より一足先に十二歳を迎えていた銀。私は単なる夏バテじゃないかと返した。互いに何となく納得し、もう少し様子を見ようと決めた。
が、銀の不調はつづき階段を上ることも億劫なのか呼んでも駆けてくることもしなくなった。やはり銀の様子がおかしい。連絡をもらった私は銀を連れて母と動物病院へ向かった。体重も大分落ちていた。軽い脱水症状もみられ点滴を打ってもらった。夏バテにしてはどうも様子がおかしいと獣医の横山先生も言った。念のために血液検査をすることになった。検査結果が出る明日にまた来てくださいというとだった。
点滴を打ったからだろうか。銀の表情はいささか楽そうであった。母もその姿に少し安堵したようでこのまま調子を戻してくれたらいいのだけれどと期待を込めて話していた。私も単なる夏バテであってほしいと願っていたのでそうだねと相槌を打った。
とはいっても腕の確かな横山先生の険しい表情と念のためとは言ったものの何かしらひっかかる見立てに私の心のモヤモヤは晴れることはなかった。
職場には午前に休みをもらいたいと連絡してあった。翌日、銀を連れて両親と血液検査の結果を聞きに診察開始一番に動物病院を訪れた。
「急性リンパ性白血病」
横山先生から告げられた銀の病名だった。
専門知識のない私たちでさえその病名がどれほどおそろしいものなのかは予想できた。
私は「そうかぁ、そうなのかぁ」と何度も呟いていた。そして変に冷静に淡々と横山先生に銀の余命を尋ねていた。
「三週間…もって一か月ですかね」
「一か月…そうかぁ、一か月かぁ」
単なる夏バテだと信じていた。そう思い込ませていた反動があまりにも大きすぎて先生の余命宣告を情報として把握はするものの受け止めきれずどこか上の空で言葉を反芻していた。
父は拳を握り話を黙って聞いていた。母は血の気が引いた顔でただ狼狽えていた。
私は先生に銀は苦しみますかと尋ねた。先生は可能な限り苦しみを和らげますと言った。
診察台の上に腹をつけて大人しく伏せている銀を撫でながら、どうせ助からないのなら楽にしてあげたいと私はその場にいる両親と先生に聞こえる声で言った。
「安楽死という手段をとられる飼い主さんも中にはおられます。それは飼い主さんの意思ですからそう望まれるならこちらもそのように対応いたします。でも、私個人の考えとしては最後の日まで見届けてあげてほしいなと思います。」
その時銀はこちらを見ながらしっかりとした声で一度鳴いた。
私はその声にハッとした。
「ほら、銀ちゃんもこんなに頑張って生きようとしているように見えませんか?ね?」
そう私たちに言ってくれた先生の声は涙で震えていた。
その日は脱水しないように輸液してもらい病院を出た。これからどうしていきたいかを伝えにまた明日病院へ伺う約束をして。
咄嗟に口から出た安楽死という言葉についてその日の夜、両親と私は何時間も話し合った。銀はその話を静かに傍で聞いていた。
結論は出ていたのかもしれない。診察台の上で張りのある声で鳴いて伝えてくれた銀の思い。
これから限られたあまりにも短い時間を一緒に最後まで共にしようと私たちは決心した。
私はその日から実家に寝泊りすることにした。職場にも出来る限りのことはしたいと変則的に時間の融通が利くように話をして納得してもらった。私はひとかけらも悔いを残さないように、後悔しないように銀と一緒に頑張ろうと心で誓った。
私は銀の闘病を共に過ごした日々を毎日ノートに記した。
それは私自身の心の整理にもなったが、そのノートが一ページでも一冊でも多くなるようにと願ったからであった。
銀と過ごした時間を心に刻み込むように。
これは当時私が書き記した銀の命の記録である。
(完)