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危険を知らせる感覚

宇宙の神秘を解き明かすより、ノーベル賞をとるより、誰も解けなかった数式を証明するより、世界規模で生活様式が変わるようなガジェットを発明するより、全世界を感動の渦に巻き込む物語をつくるより、人間にとって、

『差別意識を捨てる』

ことの方が、遥かに難しい課題なのかもしれない。

人を差別する感じ、
誰かを見下す感じ、
吐きそうになる。
息が詰まる。
背筋が、ゾワっとする。
身体が固くなって警戒体制になる。

差別をする人々は、その感じを感じたいのだろうか、そう感じることを必要としているのだろうか。

差別する人々は、そうは感じないんだろう。
差別をしている瞬間、人間はそう感じていないと言った方がいい。
差別主義者とレッテルを貼られてしまうほどの人はそう多くないかもしれないし、聖人以外の普通の人は、ある瞬間ふと差別してしまうことがあると思う。

誰かを見下した瞬間に、自分が大切で重要で価値のある存在だと自分自身で感じられるから、自動的にやってしまう。
その一瞬だけ自分で自分を良いものと思えて、生きてて、存在してていいんだって思えるから、機会を掴み、機会を作り、必ず無意識にやってしまう。
自分には価値が無い。あってもまだ充分ではない。
無価値観が強ければ、強い人ほど、自分以外の人を見下さないと、やっていけない。
苦しみに喘えいでいる人々だ。

その瞬間、客観的に見ている周りの人は、そうは思えない。
差別する人は差別される人より、人間性に問題のある、良心が死んだ、愛の無い、近寄りたくない人々、なんて思う。
自分でも気づかずにやってしまっていることもある、ということにも気づかず。

私も上記のどの感じも体験してるし、必要としたこともあるし、これからもあるだろうと思う。
でも、たぶん割と正気でいられる時に感じる、あの差別に触れるとゾワっとする恐怖の感覚だけは忘れないでいたい。
なぜそんなに気持ち悪いと感じるのかはわからないけど、感じられるのはありがたい。
この感覚が身体の中に残っていれば、どうかしてしまった時、正気に戻してくれるだろうから。

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