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リディア・デイヴィス 『ほとんど記憶のない女』

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★★★☆☆

 2005年刊行の本書は、リディア・デイヴィスの5冊目の短篇集だが、訳書としては初めてになるらしい。訳者は岸本佐知子。アメリカでは作家としてよりもフランス文学の翻訳家として名が知れていて、フーコー、ブランショ、サルトル、プルーストなどを手がけているそうだ。手がけた著者の名前を見るだけでも、かなりしっかりとした文芸翻訳家であることがうかがえる。

 僕はその名をポール・オースターの元妻ということで知ったような気がするが、本国ではオースターの方がリディア・デイヴィスの元夫として知られていると、どこかで読んだ気がする(日本ではオースターの方が有名だけれど、アメリカでは逆なのだ)。実際にどうなのかはわからないけれど、このふたりが夫婦というのはかなり豪華ですよね。ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリー夫妻のような華やかさがある。日本だと、川上未映子と阿部和重夫妻みたいな。

 本書には200ページほどに51篇が収録されている。このことからわかるように、短篇集というよりは掌篇集というほうが近いだろう。1ページどころか数行で終わってしまう作品すらある。

 そこまで短くて作品として成立しているのかと問われると、答えるのがいくぶん難しい。もちろん、作品としては成立しているのだけれど、いわゆる短篇や掌篇として読めるのかというと、首を捻ってしまう。少なくとも読む人を選ぶことは確かだ。
 その理由のひとつは、物語性を欠いた作品が多いからだ。〝お話〟としての体をなしていないため、読み物として受けとるというより文学作品として味わうことを求められる。ある種のステートメントや思弁、意識の流れ、とりとめのない思考、ことば遊びのような作品が少なくないため、気に入る人はとても気に入るだろうが、まったくぴんとこない人もいるだろう。

 かくいう僕も、1冊通して読んでどうかというと、手放しでは賞賛できない。いくつかの作品はとても気に入ったが、途中で飽きてしまった感も否めない。あっさり読み終えられそうな分量なのに、読了するまでにわりと時間がかかってしまったのは、分量の軽さに対して質量の重さが関係していると思う。
 思弁を弄んだり、言語表現で実験したりといった作品というのは、何篇かなら興味深く読めるのだけれど、二桁を越えると、食傷気味になってくる。実験音楽やフリージャズを長時間聴いていられないのと似ているかもしれない。音楽と音の連なりの差異を長時間楽しむには資質が問われる。

 難解なわけではないし、作品ごとの狙いはなんとなく掴めるのだが、何週間かかけてちびちび読んでいると、ちょっと読むのが億劫になってくるところがあった。こういう本は一気呵成に読んでしまうのがよい気がする。

 ちなみに、本書を皮切りに現在では4冊の訳書が出ているので、気に入った人はじっくり味わうとよいと思う。僕もまた文学が味わいたいなあ、という気分のときに別の作品を読もうと思う。

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