見出し画像

僕の職業と英語の関係と、気持ち。

いつも呟き伯爵英語伯爵ご愛読いただき有難うございます。


僕は最初、配偶者ビザでオーストラリアに移住しました。
理由は:
・日本で知り合い、恋に落ち、結婚した人がオージー(オーストラリア人)だった
・結婚後暫くしてかなりキツイ人種差別的行為を受けた
・人種差別的行為のため日本人(みんなではないです〜)に愛想が尽きた
・未知の世界を知りたかった
からです。

なので英語が準備万端できていた訳でもなく、申請後2年で許可された配偶者としての永住権を持ってそそくさと渡豪しました。

彼女は水を得た魚のように、多国籍の人種が共生する故郷オーストラリアを満喫していましたが、僕は西洋かぶれしてるけどどっぷり日本人だったことから、かなり精神的に参ってしまいました。

当初は日本語新聞の編集会社に勤め出しましたが、仕事場以外では英語でみんなが何を言ってるのか分からない。僕の悪口を言ってるのか?みたいなネガティブな精神状態に陥ってしまったのです。

それでも辛抱強く側にいて助けてくれているカミさん。「英語の卒業証明書が必要ね」とアドバイスをくれました。

日本でどっぷりグラフィック・デザインをやっていたこともあり、Certificate IV in Information Technology Web Design & Administration WEBデザインとCMSアドミンを選択し無事終了しました〜!

専門学校でクラスが小さかった、本来楽天的で快活な性格な自分をフルに活かし先生とも仲良くなりつたない英語をカバーしたこと、そして何よりもグラフィック・デザインの知識とスキルがあったことで無事に終了できたと思います。

更に同じクラスに以前日本に交換留学経験のある女性がいて、送り迎えもしてもらい、厳しい状況ながらみんなに支えてもらっていることに感謝するとともにその後、履歴書にこの終了証明書を併記し始めました。

この証明書は水戸黄門様の印籠みたくすごく威力を発揮しました。それから現地企業からも応募後に声がかかるようになり、普通のオージーとしての生活が始まったのです。

依然、日本から来た英語がちょっとわかる日本人グラフィック・デザイナーとしてでは普通のオージーとしての生活をフルに享受はできませんでした。

現地の会社に勤めるようになり、更に現地語の英語の学習は絶対的なやらなければいけない事リストのトップの項目です。

いくつかの現地企業でのインハウス・グラフィック・デザイナー経験の後、自営でデザインと印刷サービスもやりましたが、これらを可能にした要素は:
・辛抱強いカミさんの愛に支えられている
・日本に友好的なオーストラリアという国
・グローバルに追求できるグラフィック・デザインを続けていた(好きであるもありますね)
・本人が楽天的である
・学ぶことをいとわないスタンス

です。

採用はされませんでしたが一度、超有名なオックスフォード・プレスのメルボルン支社のグラフィック・デザイナー兼チームリーダー募集に応募し面接を受けた際に、受賞歴のあるデザイナー主任面接官から「素敵なポートフォリオね」と言われたことや、サイン制作会社の代表からも「君のデザインスキルは素晴らしいね」と言っていただいたこともあります。

現在60歳を迎えヘルニアの手術で職場を離れ、セミリタイヤ的にのんびりと執筆やデザインを続けています。

結構晩年で様々なことが目まぐるしく起こった35年でした。カミさんと出会った35年前はこうなることは全く想像しておらず、渡豪後は厳しいながらも軌道修正を加えつつ、カミさんの希望である普通のオージーとしての生活をようやく実現できているのかな、と思います。

最近のインターネット長者さん達みたいに、成功する・金を儲けることに心を置いていなかっただけで、今でも横にいてくれるカミさん、こっちで生まれた子供達、支えてくれている家族・知人、みんなに感謝です。

そして自分にも賞賛を与えると同時に、皆さんに微力ながらアドバイスをお伝えしたいと思います。

お金儲けでも好きなことを追求するでもなんでも良いです。選択肢も可能性も多くスマートな世代の人達、止めるものは何もないですよ。笑っていることが多い人生、たとえ厳しくてもその最中で一心不乱にできることを見つける。そして続ける。やろうと思えば出来ます。時間はかかるかもですが、気持ちをそこに持っていけば実現できないことはほぼありません。できるだけ有利な条件を揃え(職業や状況)続ける。僕が出来たのですから、誰にでも出来ます。

失敗したら?起きて反省して学びまたやり始める、です。それ自体が素晴らしいことです。ひとつづつ克服してゆく過程を実感する。人生楽しみながら生きてゆきましょう。