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ただいま・です

一ヶ月ぶりにログインしようとしたらなんと、アカウントなどをメモしたノートもどこにあるのかわからずにオロオロしていました。

 お知らせから一ヶ月が経過しました。
 樹は無事に戻って参りました。
 ご心配のメッセージをいただいたみなさま、ありがとうございました。
 なんとか生還いたしました。
 今まで、そう、気がついたら絵本を渡されていた幼稚園に入る少し前から、自分のそばには常に活字がありました。
 この自宅には本棚が三竿あります。
 全部自分のものではなくて、家人の書籍や絵本なども少しはあります。
 三階の物置には段ボール3ケースの古い文庫本が本棚に入りきれずに、そっとしまわれています。茶色く変色している文庫本の文字は小さくて読みにくいです。定価も300円前後だったりして。当時の帯も懐かしい思い出となっています。すべてバイトして購入したもので中には、祖父と映画に行った帰りに河原町の駸々堂で購入した書籍もあります。
 当時の私は外出は祖父と映画に行って食事をして書店、レコードショップに行くのが定番でした。中学生の時はほとんどお金もなくて祖父におねだりして参考書や辞書、レコード、書籍などを買ってもらっていました。
 祖父は映画館で仕事をしていたので、どこの映画館も無料で入れたのです。そんな祖父も遠いところに行き、20年が過ぎようとしています。

 今、私の目の手術のことを知れば、家人の次に嘆き心配してくれたことでしょう。なぜなら私の名前を比叡山のお寺に授かりにいってくれたのは祖父だったからです。
 祖父も祖母も今でいう、白内障や緑内障の手術などは経験しないまま、初めての入院でこの世を去りました。変に私自身が今の医療のことや、自分の変化にめざといだけで、発見が早く、初めての診察でその後の午後オペするとは予想して、入院セットを作っていたけれども、本当は杞憂であればいいと思っていたのは否めないです。
 しかし、現実は網膜剥離ということで、簡単なレーザー手術ではなくて入院を伴う手術になってしまいました。
 活字とともに、教えることとともに、愛する人とともに見た景色や色や涙の上を自分とともに過ごした体の一部はそのときに失いました。
 今は一枚のHOYA のレンズを通して脳内で変換したものを見ています、そしてこうして初めての原稿を書き込んでいます。違和感はあります、当然点眼はしていますし、来週通院の予約も入っています。
 でも私は前を向いてこの先も祖父の分も周りの人のことをおもんばかりながら、生きていこうと思います。そしてこれからもたくさんは 無理でも書籍を手にして読んで、少しでも優れた美しい日本語を紡いでいきたいと思っています。
 家人には少しペースを落とすようにといわれています。
 確かにそう思います。
 目は何も言いません、しかし、痙攣という形でサインを出してきました。
 それが何か眼科的に意味があったのかはわかりません、しかし、これからもいろいろなサインを受け取りながら私はこの手を止めることはしたくないなと思っています。
 一ヶ月放置していたPC も壊れていて、私の瞳と同じく役目を終えました。これからはこのPC とともに悩み、苦しみながら新しい作品を紡いでいこうと思います。
 涙はもういらない。
 これからは怖かった思いに蓋をして手術に関わってくださった人たちに感謝しつつ、この目を大事にして時間を決めて作品に向かうという約束を遠くにいる祖父と密やかに約束した。
 この名前に恥じない生き方をこの先もするために。
 ありがとう、そして新しいあたしを見守って、ね。

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