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ロゴスと巻貝-再読主義そして遅読派-/小津夜景

文章は合理性に侵されると、推敲の過程で悟性にあらがえず、どんどんゆがみが削られ、不純物がとりのぞかれ、見た目がととのって死に至る。

研ぎ澄ませれば研ぎ澄ますほど、文章はいいものだと思っていた。
この感想文だって、自分が感じたことになるべく近づけるために言葉を選んでいる。
1ミリ飛び越えたり、1ミリ足りなかったり。
そこを探るのがアウトプットしてはじめてわかった楽しさでもある。
で、ここの文章を読んではっとする。
ーーー見た目がととのって死に至る。
未熟者の私が体裁を整えると、それはより平坦になる。
尖らせるためにヤスリをかけていたのに、ただなめらかになったかのように。

文章の靱帯はリズムにあるから、軽快にテンポに乗っかっていくほうがちんたら読むよりも意味をつかまえやすい。それなのにゆっくり読むのは、好きな曲の数小節をくりかえし聴くみたいにして、言の葉のざわめきを心ゆくまで堪能したいからだ。

小津夜景さんと宮沢賢治の詩は、ざわめきに溺れるように堪能している。
身を委ね、いっそとけるように。
同じ宮沢賢治でも『やまなし』や『月夜のでんしんばしら』のような物語は、手触りが楽しい。
気持ちのいい言葉をずっとさわさわさわさわ撫でている。

一度読んだ本をもう一度読むということはこれまでほぼなかったのだが、ここ数年でちょっとだけ読み方が変わった。
気になるフレーズに出くわすと、素通りせずに立ち止まるようになった。
なぜここに反応したのかと自分に問う。

こんなふうに深掘りしてみようと思ったきっかけは、又吉直樹氏の動画『インスタントフィクション』。
一般の人が書いた短い文章を、髑髏万博しゃれこうべばんぱく先生がひも解いてくれるのだが、これがとんでもない神作品に変貌する。
ゆがみや不純物があったとして、むしろそこに想像させてくれる余地が生まれる。
こんなに自由に読んでいいのか。
ここまでおもしろがれるのか。
私の世界がひっくり返るくらい多くのことを学んだ授業動画。
今まで私が読んできた作品たちはもっとおもしろく読めたのかもしれないと惜しくなるくらい、概念がぶち壊された。
これは一生モノのスキルではなかろうか。

特に好きなのは「(11)度肝ぎもぎも」と「(25)存在」。
いや、「(21)嘘」「(56)人人間」も捨てがたい。
これまでの読書を含めても、上位にくるくらい良い作品。

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