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フィンランドの中心で考えてみる。歌の先生としてできること。


一度積もった雪がほぼ溶けてしまった。冬時間に入ったため日が暮れるのは早くなった。「夕方からあらたなる一日の始まり」みたいな感じはキライではない。根っこが夜型なんだろう。朝は明るくなってから起きている。フィンランドの11月は「死の月」と言う名前がついている。父の日と、11月11日の「シングルの日」のあとは、もうピックヨウル、小さいクリスマスパーティに突撃するしかないのだろうか。

自分のできることを考える


たまには仕事について書こう。私はフィンランドの4年制の学校で声楽指導者としての訓練を積んだ。並行して週一時間以上の声楽レッスン、コンサート参加、指導に関する講義等を受けつつ、指導者としての「実習訓練」が2年間あり、6名のフィンランド人生徒を教える経験を得た。フィンランドへ来る前には職業声楽家としても指導者としても経験があるし、フランスでは声楽指導者の国家資格に合格している。ここでは、言葉はフィンランド語だ。

この秋からさらに音楽関係の新しいフェーズへ進んでいる。新しいコースでは8名の女性が集まった。一応試験があったのでセレクトはされている。クラシック声楽からは私のみだったが、ポップス弾き語りをするので、OKだったのかもしれない。音楽療法に関する方面にふれることを学ぶ予定だ。

どんなレッスンができるのか

現在の学びはのちのち書いてみようと思うけれど、今考えていることは、多少その影響を受けていると思う。声楽指導者として、できることはなんだろう?たとえばネットで何かできるとしたら、どんなレッスンができるのだろうか?ということだ。

フィンランドではクラシック指導とポップジャズ指導が、きっぱり分かれている。たまにはお茶しようよ!と思うくらい分かれている。同じ歌の指導者として同じ協会があるが、テクニック的、システム的に異なることもある。私は公的にはクラシック声楽指導側だ。ただし、発声はどのジャンルにも共通するものがあると思うのでさまざまなジャンルを歌い、教える。シャンソンやミュージカル、J ポップ、歌謡曲等も教えている。原語が好物なのでフランス語のシャンソンを教えるのも大好きである。日本語で歌いたい日本語が母語ではない人へも、じっくり発音指導を交えて歌う。

クラシック声楽指導には発声と言う技術的なものがあり、大きな音、高い音を出すという目標に思える。そこに時間を割く人も多いだろう。私は、歌詞の発音および理解にも同等の時間・価値が必要だと思っている。クラシック音楽は西洋生まれのものだ。日本歌曲を除いては、外国語を歌うのである。

声は体から生まれる。発音は、声もしくは息の出口つまり口周り、口の中や周辺で形作られ、その出口の形で、言葉として認識される「音」となる。フィンランドで新しい言葉の曲に出会ったとき歌詞を読むだけの練習をしたところ、すらすら読めるようになると、いきなり歌うのが楽になるという体験をした。でも歌うのが楽しいのだから、つい、この過程をすっとばすことになりがちである。

長く声楽家をやっていたらイタリア語ドイツ語を歌うの当然だろう、と思われるかもしれない。しかし若い頃は制限があった。音楽学部にいる間は指導の先生から提案される曲のみを学ぶことが多く、他指導者とは交流がない。それで学部にいる間は、ドイツ語歌曲を学ぶことができなかった。修士でやっとドイツリートに触れることができた。一方、修士のオペラ研究では、原語で歌うことができなかった。外部の某研究会でも、原語で歌いたいといったら指導者と喧嘩になった。観客が理解できないから、というのが理由だった。これがまあ30年以上前の話であるので、現在は改良されていることを願う。

フランスでは仏語、イタリア語、ドイツ語、ラテン語に触れることが普通だった。3か国語以上のレパートリーは試験やオーディションで常に求められた。合唱の仕事で困ったのはロシア語作品だった。全く読めない歌手の為に、仏語で読めばらしくなる、と言う表記のある楽譜を配られた。しかし、練習につきそった通訳に何度言われても、最後まで直らなかった。

幅広いレパートリー

フィンランドの話に戻ろう。フィンランドの国立音大は一校シベリウスアカデミーのみであるが、音楽学校を国全体に網の目のようにまとめるシステムがあり、レベルも全国で制定されている。ポップジャズも同じ扱いである。クラシックの声楽レパートリーは非常に広く、これもまとめられている。そのリストは、時代的にルネサンスから始まる。原語では、フィンランド語声楽曲、スウェーデン語、ドイツ語、イタリア語、フランス語、英語、ロシア語作品が網羅されている。

スウェーデン語作品に関しては、フィンランド国内でスウェーデン語圏での音楽の学びもあるかもしれないが、そもそもフィンランドの詩人Runebergはスウェーデン語で詩を書いており、フィンランド人作曲家がつける曲であってもスウェーデン語だ。フィンランドの作曲家を代表するシベリウスも母語はスウェーデン語であり、スウェーデン語の声楽曲がある。

フィンランドでは教会音楽家も職業である。ロシア教会も普通にあり、ロシア語の歌を学ぶ人もいる。ロシア教会でのミサは歌ミサであるが、フィンランド語である。学校でロシア語歌曲を学ぶ時間はなかったが、本当は大好きなショスタコヴィッチとか触れてみたかった。「自分でやればええやん」と言う気持ちがあるのは「発音記号を知っていれば、それなりに発音できる」と言う確信があるからだ。でも、新しいアルファベットを読む勉強には時間がかかる。

新しい言語で歌う

それなりの年齢と経験をもって入学した私の場合、全てを学ぶ必要はなかったわけだが、スウェーデン声楽曲は全くのド素人だ。音楽的にも素敵なものが多く、目新しかった。

フィンランドは長期間スウェーデンのもとにあった。ロシア下にはいってから、独立をめざすことになったとき、文化面でひっぱっていったのはスウェーデン語圏フィンランド人でもある。音楽では、スウェーデンやドイツへの留学があったという。ヘルシンキに設立された現在のシベリウスアカデミーの原型である音楽学校が始まったころは、まだフィンランド語が公的に使われておらず、レッスンはスウェーデン語のみであった。おそらくこのような流れで、初期の歌曲集にはスウェーデン語およびスウェーデン作曲家による作品も多い。

スウェーデン語もABCで書かれている。見た目でわからなくても音にしているうちに「これは英語のあれと同じ根っこだ」と聞こえて来た。また、ドイツ語と読み間違えることも多かった。口に慣れてもらうしかない。声楽だと、普通の発音と、発音の扱いが少し違うのもおもしろい。

新しい言語の発音に挑戦するのはこれが初めてではない。日本の大学在学中にはサティを歌いたくて大学の講義と、辞書でフランス語を学んだ。ネットなぞ、ない。たぶん辞書に、発音記号が載っていたことだろうが、短期留学先アメリカで発音記号について知り、それで細かく確認し始めた。その後、ポーランド語でショパンを歌いたくなった時は、ポーランド人を探して指導してもらった。パリでは、比較的人を見つけやすい。このときも発音記号が頼りになった。この時にはネットのでアップされた録音も使えた。ついでに、チェコ語のアリアを歌うことになった時は、オペラ座のピアニストに指導してもらった。コレぺティピアニストと言うのは、いろんな言語の発音を指導できる、ものすごい人材なのである。

スウェーデン語の「発音の」学び

学びと言っても、これまでの歌の為の発音と同じく、「発音だけ」である。綴りと発音の関連。発音そのもの。単語の読み。フレーズとしての読み。今回は辞書がない。余裕がなく、発音記号を調べることは稀だった。ドイツ語と共通する音もあるので、それが頼りである。日本人になじみのある外国語と言うと英語であるが、英語は母音も子音も種類が多い。また綴りと発音に関連がない例外も多い。多すぎる。だから、それに比べたらかなり楽だと思う。

スウェーデン語そのものを学ぶわけではないが、曲によってはメロディが自由で、ある程度読めていないとうまくいかない作品がある。ネットで調べてみても、スウェーデン語には方言により発音が違うとか、とにかくメロディ感がフィンランド語とはまるで違う、ということくらいしかわからない。フィンランドにもスウェーデン語圏があるが、彼らの話すイントネーションはまるっきりフィンランド語なのであり、ある意味別物だ。

発音オタク


声楽家向け英語発音講座

一度、フィンランド国内だが遠方の学校で開催される夏期講座をとった。英語の発音講座である。歌う機会が少なかったこともあるが、今の所英語が一番苦手である。先に書いた通り子音と母音が多い。良く歌われそうなバロック作品は、実は古い発音が必要ともいえる。音楽的にはさっさと楽譜は読め、発声も無茶苦茶大変なことはないかもしれないのに、歌い始めるまでに時間がかかる。英語はほんとうに、ほんとうに、手間がかかる。義務教育で長年学ぶのに、英語作品は声楽の学びでは、かなりマイナーである。

ちなみにこの時の課題は、歌詞を書き抜き、発音記号を一音ずつまたは単語ごとにチェックしていくことだった。そのあとで、それを自分で発音する。送られてくるリンクの動画は、一つ一つの母音についての説明であった。その発音が含まれる単語、口の中(これは発音記号、IPAと出てくる図)等々。現地の講座で受け身になって聞いていたらどんなに楽だろうか・・・。オンラインが流行ってきたからか、以前からこの講座があったのかはわからないが、マイペースの学びを続けていく難しさを痛感した。それでも歌という区切りの駅に一度向かおう、と言う目標があれば、なんのその。(ということにしておこう)だって、この駅から、歌として形にするという作業があるのだから。そこからは、発声技術もさらに必要になるし、歌詞の意味や、声、全体を寄り合わせていく作業に入る。表現への、次の旅だ。

イタリア語発音の講座

イタリア語作品は、マルケージメトードしか歌っていないのだが、近くにある大学のイタリア人の先生による、イタリア語の発音講座にも参加した。毎週20分のオンライン個人レッスンだ。最初集まったのは、大学構内だったのにそそくさとオンラインになった。何が起きたか、ご記憶であろう。コロナである。イタリア人の先生はフィンランド語はもちろん、フランス語も話される。私はイタリア語のアリアは歌っていたけれど、話すほうはチャオとかアリヴェデルチ、くらいだし、そもそもわからない。フランス語と似ているところがあるとはいえ、ちゃんとやらないと学んだことにはならない。どうしても必要なときには仏語で話せるのは助かった。

ここでは自分で学びたい歌詞を探し、あらかじめ先生に送る。オンラインだから画面を見つめる目が緊張して頭痛がすることもあったが、結果としてはよかった。ナポリ民謡も依頼してみたが、難しく、非常に苦労した。知らない事も多かった。クラシック声楽ではイタリア語をみなマストで歌うようなものだが、「目からうろこ」のような講義であった。

ここは何の本場であろう

音楽の本場、というとイタリアやドイツ、と言う印象をうける。さて、フィンランドは何の本場であろうか?もちろんフィンランド語の本場ではあるが、音楽ではフィンランドはシベリウス以外に、西洋音楽史に特に名を知られていないだろう。日本の現代曲作曲家のようにフィンランドから現代曲の作曲家も知られているだろうが、一般的にはなじみがない。「西洋音楽史」の基盤にあるのは、1700年代1800年代の歴史的作曲家が多いだろうが、フィンランドは、まだ、ない。もっともフランスすら音楽では何の本場かわかるような、わからないようなものだ。ファッションや食の方が強いと思っている。本場、と言う単語も、受け取り方で意味がちがってくる。

となるとフィンランドの立場は弱いのだろうか。

ここでは私が経験したことそのものを、本場、としてみたい。つまり、教育である。教育を受けたといっても、すでに指導経験のある身でもあるから、ときには少し離れたところから観察していた自分もいる。そして、視察や、研究で訪れる現場ではなく、実際に受けてみた教育である。「独立して100年と少しの小さな国で、こんなに豊かな音楽専門教育を受けられるとは」

自分自身が受けたレッスン、2学年分と言う長きにわたる指導実習(しかもコロナでオンラインの時期を含む)。結果は「もう歌えなくなるのではないだろうか、声が出なくなるのではないだろうか、と何度も思った過去を覆す、最高の実りがあった。先生は10歳ほど年上の方であるが、退職年齢は選べるようで、最後まで同じ先生とのレッスンであったというのもよかったと思う。生徒の立場として私自身も経験を積んできているので、無駄に不満をまきちらすこともなく、逆に、自分で考えていくきっかけとなった。

フィンランドからも、世界的な歌手が出ていることにお気づきであろうか。現在各地を飛び回っている華やかなソプラノ歌手。オケの指揮者の陰に隠れていた気がするが、最近日本へ行ったのは、ものすごい迫力の歌手。世界で知られているオペラ劇場で歌っている。国内で活動している方も、聴く機会があれば、なんという歌唱力…と思わされる。

それは先にも書いたような、国全体での音楽学校のシステムが基盤だからかもしれない。シベリウスアカデミーの母体となった音楽学校では、設立2年目にして指導科を設定した。指導者を育成するため、学長自らも指導に当たる。また、他の地での音楽学校とも相互ネットワークを組んでいる。その後、音楽学校で「どの先生のもとでも同じ指導を受けられるように」とのための科が設置された。それらが発展し、1990年代に職業専門学校となったのが、私がいる学校であるという。

ここユヴァスキュラは、フィンランド語での教育を担う教員養成学校が設置されたところだ。それが現在のユヴァスキュラ大学となっている。また高等職業専門学校は英語では大学と訳されている。ヘルシンキと比べたら、人口を見ても小さい市と言え、学生都市であることも思うと、固定人口はかなり少ないのではないか、と思うくらいだ。ここでなぜ教員養成学校が創立されたかというと、フィンランドのどこからでも来やすいように、と選ばれたらしい。当時はまだまだ土地も自然豊かであったことだろう。ヘルシンキにもまだまだ土地はあったろうが、ユヴァスキュラは新しい建物の建設にも有利だったかもしれない。

発音オタク

もしも私が日本の音大卒業後、声楽の先生になっていたらいまどうしていることだろう?音大入学を目指す学生の指導にあたったことだろう。あるいは大学の先生になっていたならどんな指導をしていたのだろうか。

どんな人がどんな理由でクラシック声楽を歌いたいのかは、よくわからない。ともかく、歌いたいと思っている人がいるのはおそらく確かで、それは素敵だと思う。としたら、私ができることはなんだろう?発声に関しては、長い学びが必要だと思うので、まず、それはおいといて。

発音オタクを伝えたい、というのはひとつの課題だ。しかし発音記号を並べても、意味はないだろう。というのも発音記号の学びは全世界の言語が対象になるような、大きなひとつの学問であるだろうから、大変である。発音記号の事をよく知っている人には使えるが、一般的にはそうではない。

本来、楽譜と言うのは、ひとつの発音の学びに有利なものである。一音につき、ひとつの発音があてはめられているのだ。が、フレーズの意味の理解をしようとするときには、どうしてもある程度の長さの文章を学ぶことになる。となると、単語ひとつひとつ、音節ひとつひとつのことは、忘れられてしまいがち、ではないかと思う。

つらつら書いていたらまとまりなく長くなってしまった。まるでマインドマップの下書きである。とにもかくにも、このページに、私のやりたいことは含まれている。学んだことから、伝えたいことがある。学んだから教える、ではなく、伝えたいし、歌を指導する、よりも、一緒に歌いたい。歌の指導は仕事のひとつ。今、こんな風にあれこれ考えているところである。















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