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【小説】it's a beautiful place[25]「お前、知名以外の夜明けの海を見たいって言ってただろ。だから」

25

 それから私と美優は昨日のお礼がてらクアージに行き、拓巳を呼び出してまた飲んだ。悠一も店のマスターから今日は私達の席にいながら仕事をしていいと言われ、大分飲んでいる。私は酒があまり美味しく感じられず、一時間たってもグラスの一杯も開けられないままだった。これから、龍之介と会うのだ。会いたかった。けれど、それと同じくらいに会うのが怖かった。あのまま物別れで終わってしまえれば。そう心の何処かで思っていた自分に気付く。そんな自分のずるさが嫌だった。

 美優と悠一と拓巳はわだかまりもすっかり溶けたようだ。私は美優にここに来る前に今日は途中で抜けると言ってあった。拓巳と美優を二人きりにするのは少々不安でもあったが、それでもきちんと決着をつけて欲しいと私は願っていた。そんな風に拓巳と美優の事には思う癖に、龍之介の事について私の心は曖昧なままだった。

 時刻が一時半を回った。もうすぐ龍之介が来る。私は三人に手を振り、クアージの外へと出た。

 龍之介は少し離れた駐車場に車を止め、クアージの前にいた。暗く沈んでいた人影が、私を見つけた瞬間、笑顔になりぱっと明るくなる。

 ヒットを決めたホームベースで、フォークリフトで積荷を運ぶ和泊港で、潮風が滅茶苦茶になだれ込む車の運転席で、バトンを渡した勢いのまましばらく走る町民運動会のゴールテープの後ろで、飲み屋で、真二の店で、閉店したスナックからわらわらと人が出てくる一時過ぎ、私を待ち伏せた知名のあの角で、いつも見ていた笑顔。

 龍之介が私の横に立ち、私のバッグを手に取った。

「持つわ」
「いいよ」

 すぐそう言った私に龍之介はまた傷ついたような顔をした。

「軽いし、携帯と鍵くらいしか入ってないし」

 私はその顔を見たくなくて俯いたまま、言った。

「いや、でも持つわ」

 龍之介が強引にバッグを奪い去った。私と龍之介の目が一瞬合う。龍之介はいつもそんな風にする、と私は思った。いつも、そんな風に、例えこちらが断っても相手の荷物を持とうとする。

「車こっち」

 龍之介がぽつりとそう言って歩き出した。私はその後をとぼとぼとついていった。

 車に乗り込んだ後も無言のままだった。車は和泊方面に進んでいた。港の明かりが近付いては遠去かり消えた。和泊を通り越し、車は島の反対側へと向かっていた。島の主要な町、和泊と知名は島の西側にあり、東側には大きな町がないので、私はそちら側にほとんど行った事がなかった。誰もいない、街灯も滅多にない道を車はひたすらに走っていった。

 龍之介が車を止めた場所は小さな漁港だった。内喜名漁港と名前が書いてある小さな看板があった。砂浜には、海亀が産卵するのでここを荒らさないようにと記されている注意書きがあった。龍之介は砂浜をざくざくと踏んで歩いて、海の側にある岩場に座った。私もその近くにあった岩に腰を下ろした。

 波の音だけがあたりに響いていた。ちゃぷちゃぷと沿岸にあたる小さな音。何も灯りがない港に最初は目が慣れなかったが、すぐに夜目が利くようになった。この島では、月もやたらと明るい。満月ならばライトなしで海に潜っても海底が見える程だ。月は海の上に浮かび、そして水面にもその姿を映し出していた。水面に映し出された月は、まるで道のように長く海を照らし出していて、砂浜からそこまで歩いていけるような気がした。砂浜では、珊瑚の欠片で出来たこの島特有の砂が柔らかく光っていた。月明かりで私達の影は薄く淡く伸びていた。夜風はさらさらと肌を撫でた。

 龍之介がようやく言葉を発した。

「今じゃ誰も使わないような小さな港だけど、ここは夜明けが綺麗っちょ」
「夜明け?」

 私はそう聞き返した。何故、龍之介から夜明けの話が出るのかわからなかった。

 また二人の目が合った。真顔の龍之介の目が直裁に私を見詰めた。月は白々と空に輝いていた。龍之介は私から目をそらし、小さく笑って言った。

「お前、知名以外の夜明けの海を見たいって言ってただろ。だから」

 私はその言葉に虚をつかれて、龍之介を見た。龍之介の横顔は月明りとそれが砂浜に反射する光に照らされていた。口の端にはいつものあの笑みが浮かんでいた。私はそれを確認した瞬間、俯いた。目の端に滲む涙を必死で抑えた。

「なんでよ」

 唇の隙間から押し出すように言ったその言葉に、龍之介が驚いてこちらを見た。私はその目線に耐え切れず目をそらした。目を合わせたら、自分の狡さを、今日、さっきまで龍之介と会うかどうかを迷っていた弱さを見透かされそうな気がした。私は拳を握り締め言った。

「なんで、そんな事してくれるの」

 波が変わらずに低く響いていた。風がソテツを揺らす音がさわさわと鳴った。サンダルの中に入った砂の感触がやけに気になった。龍之介の方から太陽の匂いに潮が混じったような微かな香りが流れてきた。この島の匂いだ。この島では、常に風が大山から海へと向かって流れている。その風はいつもこの香りを運んできた。

「私、帰るのに」

 そう私が呟いたら横にいる龍之介の体が一気に硬直した。自分でそう言いながらも龍之介がそんな風に体を強張らせた事に私は堪らない気持ちになった。爪が握り締めた拳の中で手のひらに強く食い込む。私は振り絞るように言った。

「そんな事されたら、ずっと、島にいたくなっちゃうよ」
「じゃあ、いろよ」

 龍之介が顔を上げて言った。今まで聞いた事がない程に強い口調だった。龍之介が、私の肩を掴んだ。

「なあ、なんでいられないんだよ」

 私は怯えて体を固めた。堪えていた涙が思わず溢れた。泣くなんて卑怯だ。泣く資格など私にはない。けれど、涙は止まってくれなかった。

 龍之介は私の涙を確認して、手を離した。膝を折り、Tシャツの衿を掴み、振り絞るように言った。

「東京なんてって言ってただろ、じゃあ、なんで」

 なんで戻るのか。ずっと自分で自分に問いかけていた疑問だった。わからない、と繰り返し私は自分に言い続けていた。けれど、私はその時、するりとこの言葉を口に出していた。

「絵が」

 こちらを見る龍之介の視線を避けて、私は一気に話し出した。

「私、私ね、絵を描いてたの。昔、入選したの。結構、大きい賞で。でも、わからなくなって。東京にいて、なんで描きたいのか、描く事が本当に好きなのか、どんどんわからなくなって。描きたい事、何もなくなっちゃって」

 初めて自分の絵を完成する前に破り捨てた時のことを、こんなものでは駄目だと誰かに言われる前に、自分でこれがどうしようもないものだと知っていながらも無理矢理に描き続けた日々を思い出す。ずっと眺めていたアスファルトの色も、駅から部屋までのあの道のりも。

 ぽつりぽつりとある自販機の灯りだけを頼りにして歩いた。十分の道のりですらそうでもしないと歩けなかった。アスファルトの灰色に呑み込まれてしまいそうな気がした。部屋に戻ったら今度は埃が積もったフローリングの床があるだけで、その全てが自分を拒絶しているように見えた。何の為にここにいるんだろう。そう自分に問いかけるのが怖かった。一体何の為。何の為にそこまでしてしがみつくのか。私が絵を描く事を喜んでくれる人などもう誰もいないのに。私が絵を描く事で醜くなっていく人しかいないのに。

「絵を描く為に東京来たのに、全然出来なくて、辛くて。全部嫌だったの。逃げてきたの。でも、ここに来て」

 私は言葉を切り、龍之介を見上げた。ふっと東京でのあの景色が視界から消えた。龍之介は私を眉根を寄せて見詰めていた。責める事なく、ただ素直に、心配げに。その視線に押されて、私はずっと喉でひっかかっていたこの言葉を口に出した。

「また描きたいって思った。やっぱり、まだ描く事、あるって」

 龍之介の顔が見たくなくて、私は俯いた。俯いたまま一気に言った。

「こっちで描いていく事も出来るのはわかってる。でも、私、まだ東京で美大に在籍してるの。今ならまだ戻れるの。教授も、戻って来いって言ってて、だから」

 それからの言葉は続かなかった。私は俯いたまま、唇を噛み締めた。私はこの島を出て行く。その理由をようやく言葉にして、私は自分でもその感情の大きさに驚いていた。私は今まで描きたいと思った事はなかった。ただ、現実逃避の手段として、そこにあるものを描いていただけだったのだ。唯一、誰かに見せたいと思って描いた絵はあの雪の絵だけだった。

 あれから、あんなものを描かなければよかったと何度も思った。あれを描く事さえしなければ私は有末とうまくやっていけた筈だから。

 けれど、私はやはり描きたいのだ。あの時の気持ちで、美しいものを誰かに見せたいと思う気持ちで、誰かの心の中にある、綺麗なものを映し出す気持ちで。

 沈黙が流れた。私は俯いたまま、じっと足の間にある砂浜の色を見ていた。桜色の小さな貝殻が足元で割れている。波の音が絶えず響く。祈るように私は龍之介の言葉を待った。どんな言葉が返って来て欲しいのかはわからないけど、それでも、龍之介の言葉を私はひたすらに待った。

「奈都はすげぇな」

 龍之介が言った。私はすぐさま答えた。

「すごくない」
「いや、すげぇよ、本当」
「すごくないよ」

 そこでまた沈黙が流れた。龍之介は岩の上で大きく伸びをした。不思議と小さく笑っていた。横顔が月明かりに浮かび上がった。少しまくれ上がったような口元、目の下にくしゃりと皺が寄る笑顔。それが浮かんですぐさま消えた。そして、また龍之介が話し出した。

「前言ったろ。俺、福岡にいたっちょ。島にずっといるの嫌で、ここで人生終わるなんてって思ったからさ。でも、駄目だった。最初は楽しかったんだよ。だけど、まぁシュウの事もあったけど、向こうにいて俺も辛かった。何の為にここにいるのかわからなくなった」

 そこで言葉を切り、龍之介は私の方を向いた。少し笑って、言った。

「奈都みたいにやりたい事もなかったしな」

 その言葉の後、龍之介は静かに続けた。

「俺はもう島から出ないと思う。俺が長男だってのもあるけど、俺はやっぱり島人なんだよ。島が好きだし、島にいたい」

 その答えは、最初からわかっていた。きっと龍之介はそう答えるだろうと、元々予想がついていた。けれど、それでも、今、私の胸は痛かった。だが、龍之介も同じように、胸が痛いのを知っていた。だから、何も言えなかった。

 また戻ってくる。また会える。そんな言葉は気休めにしかならない事を私達は知っていた。人の気持ちはすぐ変わる。約束できる程の確証は何もなくて、それでも待てる程の関係でもまだない。その事を私も龍之介もよくわかっていた。

「龍之介」

 私はそう言って龍之介の胸に倒れこんだ。龍之介、龍之介、と何度も言った。本当はこう言いたかった。一緒にいて。ずっとずっとずっと一緒に。でも、言えなかった。言える訳がなかった。だから、龍之介の胸を何度も叩いた。お前いってぇよ、と龍之介は笑って、何度でもそんな風に叱られたいと思いながら、私は龍之介のTシャツの匂いを嗅いだ。この島の海と風とやっぱり同じ匂いがする。そう思いながら焼付けながら。

 私達はそれからずっと手を繋ぎ、夜明けを待った。明日仕事でしょ、と龍之介に聞くと大丈夫っちょ、と龍之介は答えた。何度も至近距離で見詰め合った。互いの唇が欲しいと言っていた。けれど、それに負ける前に私達はお互いに視線をそらした。最後だからという事を理由にしてまた抱き合うなんてしたくはなかった。

 次第に海が光ってきた。雲が静かに海の上を流れていく。ピンクに、薄紫に、オレンジに空が染まっていく。夜が頭上に追いやられ、その代わりにあたりが光に満たされる。そして、龍之介の顔が柔らかに照らされた。

 龍之介が私を後ろから抱きかかえた。頭に熱い息がかかった。龍之介は私の髪に顔を埋めていた。

「それじゃあ夜明け見えないよ」

 私は首筋に感じる龍之介の唇の感触に戸惑いながら、そう言った。

「俺はこれから幾らでも見られる。でも、奈都とこう出来るのは」

 私は振り向き、龍之介の唇を掌で塞いだ。龍之介の瞳の全面に、私が映っていた。夜明けの海を背景にして。

「お前の後ろ、海が光って、すごく綺麗」

 龍之介が、私の掌の下でそう言った。私は、龍之介の唇から手を離した。
龍之介が、私の頬をそっと撫で、言った。

「お前が島を綺麗だ綺麗だって言うから、俺にも島が綺麗に見えた」

 龍之介は、私を眩しそうに見詰めて、言った。

「何度も見てるけど、今の海が、今までで一番綺麗な海よ」

 私は涙を堪えながら、龍之介の首に手を回した。

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忘れられない恋物語

作家/『ILAND identity』プロデューサー。2013年より奄美群島・加計呂麻島に在住。著書に『ろくでなし6TEEN』(小学館)、『腹黒い11人の女』(yours-store)。Web小説『こうげ帖』、『海の上に浮かぶ森のような島は』。