見出し画像

差別や排除との闘い方を強要しないでくれ

「もっと冷静にうまくやればいいのに」「感情的になりすぎて周りが見えなくなっているのでは?」「客観的に、戦略的になった方が良いよ」

いずれも差別や排除と闘っている中で声をかけられたこともある言葉であり、また、声を上げている当事者に向けられる場面をよくみる言葉たちだ。「障害」関係でも、「ジェンダー」関係でも。

私も一時期はそう思っていた。ただ声を上げるだけではなく、実態を変えるために戦略を考える必要があるのではないか。もっと「うまく」やるべきではないか。

けれど、最近特に女性差別の当事者としての自覚を強く持つようになったのもあり、声を上げている人に対して「自分もそう思います。でもあなたはもっと冷静になった方が良い」というのは違う、といま強く思っている。本当に差別を無くしたいのであれば、なぜ差別が起こっているのか、なぜその人はその声をあげたのかを考え、それをなくすために自分の日常でできることを考えて行動することであり、すでに闘っている人に「もっとうまくやれ」と言うことではない。

声をあげたり、当事者が声をあげるのを応援しながら、実態をどう変えていくかの戦略を考えることは相反しないし両立し得る。一人だけですべてをバランスよくやる必要はまったくない。

怒りのパワーはすごい。自分は障害のある方の支援をする中でそれをすべて受け止め、すべて自分で抱えようとしてしんどくてしょうがなくて全部やめたくなったことが何回もある。もちろん怒りをぶつける人たちが悪いのではない。(時々怒りを当事者にぶつけ返す支援者を見かけるが心配) そしてぶつけられた私が一人が悪いのではない。ぶつけざるを得ない社会が悪い。そして社会は一人ひとりが気づいたり、働きかけないと変わらない。いまは一緒に背負って一緒に社会の構造的な問題を解決していこうとしている人たちが近くにそして遠くにもたくさんいるから、頑張れる。

私は自分自身で声を上げたり、声をあげる人を応援しながら実態を戦略的につくっていきたい。声を上げる人たちも、実態を戦略的に作る人たちとも、そのバランスを取ろうとしている人ともつながりたい。これが私の差別や排除との闘い方。「差別や排除をなくすためにあなたはもっとこうやって闘うべきだ」というアドバイスはいらない。闘い方を強要されたくない。「あなたのために」と言うのであれば、私に助言するよりも、その人はその人なりの闘い方で闘ってほしい。私はそういう人たちとつながりたいしたくさんお話ししたい。

「苦しい思いをして『もうイヤだ!』と叫ばなければならないところまで追い込まれている人に、対案や代替案を構想する余裕なんてあるのだろうか?(中略)『冷静』でいられるのは、『物事を傍観できる人』でしかも『強い立場にいる人』で、しかも『自分がそういった立場にいることを特に考えなくても生きていける人』だと思う」荒井 裕樹著
差別されてる自覚はあるか: 横田弘と青い芝の会「行動綱領」p140






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?