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きょうだい会#03(20231001)

「対話による、気づき」

前回は、会話と対話の違いについてお話ししました。きょうだい会では、是非みなさんとの「対話」を深めて、そこから「小さな気づき」を得られるようになりたいと思います。

きょうだいや、家族は、生まれたときから、一緒にいるのが当たり前になっています。人と一緒に生活をしていると、楽しいことや嬉しいことだけでなく、辛いことや悲しいことも起こります。

人は、こどもからおとなに成長する過程で、学校や趣味において、周りの人たちとの関わりの中で自分自身をひとりの個体として認めていくようになります。

思春期の頃でしょうか。家から一歩外に出るようになると、そこには、たくさんの見知らぬ人たちがいて、いろんな情報に溢れています。自分にとって刺激的なものがたくさんあるので、どんどん欲求が高まっていき、新しいものや情報を追いかけるようになります。

わたし自身、10代の後半から、夜遊びを始めて、家族とはあまり話しをしないようになりました。それから、20代になって兄が発症したのです。両親は兄にかかりきりになりましたので、わたしはどんどん家族と距離を置くようになりました。同じ家に住んでいるのにほとんど話しをしませんでした。

それから何十年も経って、母の晩年に兄と3人で過ごすようになったときに、生まれて初めてわたしが家族と向き合い、家族の一員としての自分を思い知ることになったのです。その頃はすでに夫とは別々に暮らしていたのですが、ふとわたしは、家族との絆をどうやって築けば良いのか分からなくなっていました。

ところが母や兄と、わたしが生まれた頃のことや、幼い頃の思い出を語り合うようになると、次第に「自分」という輪郭がぼんやり見えてくるようになったのです。それと同時に、同じ家に住む家族なのですが、同じ時に同じ場所にいるのに、それぞれが見ている景色がまったく違っているということが分かってくるのです。

元々、わたしは人付き合いが苦手な性分なのですが、それは、「人と自分は別の個体である。色んな見方がある」ということがよく分かっていなかったからだと気づいたのです。

自分ひとりでは気づかなかったことが、母や兄の対話を通して初めて分かることがたくさんありました。「色んな見方がある」というシンプルなことなのに、そこに至るまでずいぶんと時間がかかってしまったなぁ、と思っています。

わたしは小さい頃から泣き虫だったのですが、母や兄はそのことをあまり覚えていませんでした。そうすると、泣いていたことすらも、そのことを覚えていることも無意味だということに気づくのです。せつないですね。

でも、そんなせつないことも、対話をして初めて気づくことなのです。自分ひとりだけでは、泣き虫だった思い出で終わってしまうのですが、ふたりの証言を聞くことによって、そこにひとつのせつない物語が生まれるのです。

今日は是非、きょうだい(家族)とのあいだで起こった「せつないこと」について話してみるのはいかがでしょうか。

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