ぎんのごみ

スプリングコートのポケットに、去年の忘れ物を見つけた。
取り出してすぐに捨てようとして、その手が止まる。ああそうか、これって、あの時の。
急に泣きたくなって、それを持つ手を、ギュッと握った。


一年前の、春。高校三年生に上がるその前に、私は転校することになっていた。
私はそれを、誰にも話さないままでいくことにした。嫌だったのだ。さよならなんて言うのも、言われるのも。泣きながら別れて忘れられるより、何も知らずに別れて、忘れられる方がいい。どうせ、大学に行ってしまえば、みんな離れ離れになるのだ。親しい友人には申し訳ないと思うけれど、もし転校した後に連絡をくれたなら、誠心誠意謝ろうと思う。叱ってくれる人なら、忘れずにいてくれるかもしれないから。
そんなわけで、私はごく普通に、転校前、高校二年生、最後の日を過ごした。終業式、欠伸を堪える生徒たちのなかで、校長先生の話を、誰より真面目に聞いていた。
引っ越しは、終業式の三日後だった。誰にも何も言わずに居たから、引っ越しの準備をするだけで、誰に会うこともなく過ぎて行った。
最後の一日。私は、一人で散歩に行くことにした。漫画もパソコンも、みんな包んでしまって、手持ち無沙汰だったのだ。勉強道具も包んでしまったのは、手持ち無沙汰になるためだったかもしれないけれど。
通学路の川沿いの道を歩いていると、急に、なぜだか、ものすごく、寂しくなった。巨大な後悔が、波のように押し寄せてきた。
どうして、誰にも言わなかったのだろう。明日引っ越しをしても、誰も見送ってもくれない。誰も、寂しがってくれない。私が居なくなったことに、気が付いてもくれない。
どうして、そんなに寂しいことをしてしまったのだろう。どうして。どうして、私は今、一人なのだろう。最後なのに、最後なのに。どうして、何も、言えずに。
気が付くと泣いていた。泣きながら、それでも通学路を歩いていた。最後まで歩きたかった。
悲しくて悔しくて、足が早まる。次から次へと涙が溢れる目を、コートの裾で擦っていると、どん、と誰かにぶつかった。
顔を上げると、目を丸くした同級生が、そこにいた。
私は、驚きで涙を止めて、数秒固まった。そしてすぐに、駆け出した。
最悪だ。
最悪だ。最悪だ。最悪だ!!
出会った同級生は、私がずっと、高校入学から、二年間。ずっと好きだった人なのだ。私が誰よりもさよならを言いたくなかった人で、言われたくなかった人。そして、何も言わなかったことを、本当に後悔した人。
それが、これだ。誰にも何も言わなくて、そのくせ勝手に悲しくなって泣いて、泣きながら歩いて。そんな無様な姿を、よりにもよって、最後の最後に、あの人に。
さっきよりももっとずっと熱い涙が流れてきて、私は泣きながら走った。当然のように、転ぶ。
最悪だ。何がって、彼は野球部で、私なんかよりもずっと走るのが早い。当然追いつかれる。最悪なことに彼は優しい。立つのを手伝ってくれて、いよいよ逃げ出す気力もなくなった私の背中を恐る恐る撫でてくれるのだ。
数分間そんな調子で、やっと私が少し落ち着いたのを見計らって、彼が、どうした、と聞いた。私は何も答えずに首を振った。意地だった。あんなに何も言わなかったことを後悔していたのに、絶対に、転校することを教えたくなかった。何も言わずに行く。そう決めた。それだけは貫きたかった。バカみたいな意地だった。
彼は大丈夫か、とか、怪我は、とか聞いてくれたけれど、どの問いにも首を振ってしゃくり上げるのに困った様子だった。私は彼が呆れて行ってしまうのを待っていた。馬鹿だと思う。絶対に後で泣くほど後悔するのは分かっているのに。
彼は暫く沈黙して、私の肩を軽く叩いて、手を差し出した。彼の手の上には、チューインガムが乗っていた。初めて顔を上げる。彼は困ったように笑いながら、食えよ、と言った。
それを受け取ると、彼はにっこりと笑って、じゃーな、と言って、去っていっった。私は、それを見送った。彼らしいと思った。放っておくことも出来ないけれど、上手に慰められるほど話し上手でもない。
ガムを食べた。あんまり、美味しくなかった。それがおかしくて、私は笑った。


スプリングコートのポケットから見つかった、あの日のチューインガムの包みを、私はようやく、ゴミ箱に捨てた。銀色のくしゃくしゃになった小さな紙が、ゴミ箱の底に光りながら転がる。
私は明日、引っ越しをする。大学に行くため、一人暮らしをすることになったのだ。あくまで偶然なのだけれど、引っ越し先は、去年まで住んでいたところと、結構近い。
あの日の思い出は、猛烈に恥ずかしい。新学期、友人たちからは、思っていた以上のメールと、お叱りを受けた。うち二人とは、大学が同じになった。
彼のことは、今はもう、たぶん、別に好きじゃない。今どうしているかも、ちっとも知らない。
けれどもし、また彼と会うことがあれば、美味しいチューインガムをあげようと、私は思った。


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「モノカキ空想のおと」春企画です。

冒頭一文を共通し、それぞれが与えられた条件に基づいて書いています。

私に条件を与えたのはれんぷくさん。条件は以下の三つです。

・恋愛系

・高校から大学へ移行する期間

・会話文のない、一人語りで進行するストーリー