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村上春樹について

西村賢太と文筆家との対談集「西村賢太対話集」を読んだ。石原慎太郎との対談の中で石原氏が村上春樹をメタクソに言っており、むかし海辺のカフカを読んだがよくわからない感じで終わるラストに「上下巻読んだ時間返せ」と憤慨し村上春樹から遠ざかっていた自分は石原慎太郎いいぞ!と思った。さらに芥川賞選考委員の奥泉光の今だったら完全にアウトな昔の行状をバラしていてさすがの西村賢太も石原慎太郎の毒気の前では可愛らしくみえる、しかしその西村賢太も朝吹真理子との対談で朝吹氏の御父君が詩人の朝吹亮二なのに詩なんかつまんねぇ的なことを言ってて朝吹真理子がハッキリ気色ばんでるのが紙面から伝わってくる。

要するに本音って面白い。

石原慎太郎がメタクソに言った村上春樹を逆にもう一度読みたなってきた。そこでかなり短めのエッセイ本「猫を棄てる」(なんちゅうえげつないタイトル)を読んでまず思ったのは、そうだった村上春樹って関西人なんだということ。京都生まれ兵庫育ちなのはよく知られた話だと思うがあの文体、作風から関西の印象がごっそり抜け落ちていた(どこ生まれどこ育ちとか村上春樹を読んでるとどうでもよくなってくるのですが)。そういえば昔の短歌の知り合いの女性が村上春樹と同じ神戸高校の同じ学年で「彼は新聞部で当時から変わっていて有名だった」と言っていた。そのへんの話をもっと詳しく聞いておけばよかった。

この本で長い間確執のあった御父君の戦時中の足跡を丹念に辿っている。村上氏の誕生には戦争が大きな影響をもたらしており、もし父親が戦地で死んでいたら、もし母親の恋人が戦死しなかったら、自分は生まれていなかったかも、と。運命の見えざる手というのかな、そういうものがこの世にはあるのかもしれない。

このエッセイの最初とラストに高い木に登ったまま降りられなくなって死んだ(降りてどこかに行ってしまったのかもしれないが)子猫の話をしているが、これは自分自身のメタファーなのだろうか。

このエッセイが面白かったので次に「職業としての小説家」を読んだ。本はフィクションよりノンフィクションが好きなのでこれを選んだ。自身の青春時代、小説を書くにいたる経緯、小説や賞にたいする考え方、執筆方法、日本の出版界、教育、原発への苦言、これは惹きこまれる、どれをとっても瞠目すべき内容、そして頻繁に出てくる「個人的」という言葉がきらきらしている。結構ぶあつい文字数の多い本なんだけど一気に読んだ。

これはあんまり面白くないなあと途中で気づいても文章がうますぎて結局最後まで読んでしまう作家というのがいるが村上春樹がその一人である。「国境の南、太陽の西」のラストが自分は忘れられない。

僕はその暗闇の中で、海に降る雨のことを思った。広大な海に、誰に知られるということもなく密やかに降る雨のことを思った。雨は音もなく海面を叩き、それは魚たちにさえ知られることはなかった。 誰かがやってきて、背中にそっと手を置くまで、僕はずっとそんな海のことを考えていた。

国境の南、太陽の西/村上春樹

海とか川とか、水面にふる雨の映像をみるとこの文章を思い出す。ほか自分にとって、これはあんまり面白くないなあと思っても文章がうますぎて結局最後まで読んでしまう作家に林真理子がいる。そういえば林真理子はどこかで「何を言っても許される種類の人間が二人いる。ひとりは麻生太郎で、もうひとりは石原慎太郎」と書いていた。


「職業としての小説家」から、村上春樹の静かな怒りが伝わってくる。自分はどうでもいいのに「なぜ芥川賞を獲れなかったのか」について色んな人から論じられることに対してとか、子供を画一的に教育するこの国のシステムとかに対して。2015年に刊行されたこの本を、おととし逝去した石原慎太郎は読んだだろうか。西村賢太対話集の刊行は2012年である。読んでいたら村上春樹を少しは好きになっていたのではないだろうか。いや、わかんないですが。


冒頭で悪口書いてごめんなさい。今さらながら村上春樹をちゃんと読んでみようと思う。