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もとい #SS

  塾の古文の横山先生は、しゃべる時にしばしば「もとい」という言葉をつける。でも、なんだか変なのだ。
「では先週の続き。サ行変格活用は、もとい、せ、し、す、する、すれ、せよ」
「ひさかたの、は光にかかる枕詞です。もとい、ひさかたの光のどけき春の日に……」
 「もとい」を辞書で引くと「言い間違えて訂正する時に発する語」とある。つまり、
「方丈記の作者は吉田兼好、もとい、鴨長明」
「源氏物語の作者は清少納言、もとい、紫式部」
 この使い方が正しいのだ。先生のもといは全然関係ないところで使っていて、「ああ」とか「えーと」と同じ、まったく意味のない言葉に思える。
  
 熟の先生なのに間違った使い方をしているのは絶対におかしい。今日の二者面談で僕はやっと先生に告げることができた。
「先生はいつもしゃべる時にもといって言いますけど、使い方間違ってませんか?」
 先生は目をぱちくりさせて僕の顔をじいっとみていたが、やがて、
「えっまだ言ってる? うっかりしてたなあ。そうだよ、もといは訂正する時に使う言葉だ。僕の使い方は間違っている。これを言ってきたのは君だけだ。さすが河野君だね」
 県内一の進学校であるT高校の模試結果がA判定だったのだ。
「先生なのに直さないんですか」
「無意識に出てしまうんだ。去年からの癖で、直したと思ってたんだけどなあ」
 それは勉強を教える立場としてはかなり問題ではないのか。僕が訝し気な顔つきをしていると、
「僕が小学五年の時、名前がもといっていう子がクラスにいてね」

 中田基くんはいるのかいないのかよくわからない生徒だった。表情が乏しくて、ガリガリに痩せていた。友達がいなくて、休み時間はいつも机に座ってぼうっと窓をみていた。
 何か話しかけても「ああ」「うう」としか返ってこなくて、会話が成立しないのだった。先生も彼には決して当てなかった。
 体育で、ドッジボールをやるだろう? 動きの鈍い中田くんも仕方なく陣地に入れるんだけど、いつの間にかいない。探すと、遠くの校庭の隅でアリか何かをじっとみているんだ。
 黙ったままのひょろひょろの姿が卒塔婆に似ていたのと、名前の字が似ているのとで、僕たちは彼を「墓くん」と呼ぶようになった。このあだなをつけたのは僕だ。呼ぶといっても直接会話ができないので、
「墓くんの制服にごはんつぶついてる。あれ、一週間前からずっとついたままなんだよ」
とか
「墓くんに近寄ったらすごく臭うんだけど」
とか、陰口を言う時に墓くんと呼んだ。

 そのうち墓くんがよく学校を休むようになった。給食のパンを届けにいった友達によると、墓くんの家はボロボロのアパートで、ドアを開けたすぐの部屋でお父さんが寝ていた。お母さんは離婚してていないらしい。
 パンを渡すと墓くんは引ったくるように奪い取り、目の前でバタンとドアを閉めた。これを聞いて僕たちは憤慨した。パンを届けてやったのに。墓くんが学校へ来た時はわざと、彼に聴こえるように悪口を言うようになった。  
 ある日のホームルームで若い女性担任が声を張った。
「みんな、中田くんを墓くんなんて言っちゃだめよ。失礼でしょう」
 教室が静まりかえった。墓くんは知らん顔で窓をみている。続けて先生が、
「だけど子供の名前に墓に似た字をつけるなんて、ご両親もよっぽど変わった方なのね」
 先生は一応先生だから、建前で僕たちを叱るけど、本音では先生もおかしいって思ってるんだ。先生の前ではおとなしくした僕たちだったが、先生のいないところでは相変わらず「墓くん!」とはやし続けた。
 墓くんが学校に来なくなって、そのまま卒業式を迎えた。墓くんも町の同じ公立中学に上がったんだけど、彼は一度も登校しなかった。噂ではお父さんが死ぬまで家に引きこもっていたが、死んでからどこかの養護施設に引き取られたらしい。

「去年小学校の同窓会があって、そこで聞いたんだ。へえ、としか思わなかったんだけど、それからなんだ。話してる最中に、もとい、って言葉が出てくるようになったのは」
 僕は先生が話しているあいだ、中田基くんが僕たちの横に立っているような気がしていた。ひやっこい空気が僕の腕をなでて、肌が粟立った。
「……先生、それっていじめじゃないですか」
「いじめ。そうなのかな。この頃、頭に靄がかかったみたいになって、仕事にも支障が出ていてね。頭を使う仕事だからね。実は、塾を辞めるんだ。今日が最終日でね」
「え」
「僕もなんで君にこんな話してるのか、よくわからないんだよ」
 先生の両目がしだいに真っ黒のビー玉みたいになってきた。


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