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そのシロウは本当の士郎?”劇場版”FateのHFルートはビターエンドか

※「Fate/stay night」「空の境界」「魔法使いの夜」のネタバレを含みます







今回のnoteの趣旨は、劇場版 Fate/stay night [Heaven's Feel]におけるラストがハッピーエンド・大団円と呼べるものか大いに疑問が残ったため、その考察をまとめたいという意図です。ちなみに、劇場版HFは大傑作だと思いますし、泣きました。なので肯定的な意見にまとまる予言はしておきます。

筆者の型月理解度

膨大な設定とテキストによって考察にあたって見落としが多いハズなので、先に理解度を。そして設定矛盾をはじめ型月警察に刺される前の弁明です。本題行きたいかたは飛ばしてください。

まず型月作品でダントツ一番で好きなのは「空の境界」で、こちらは原作アニメともに完全視聴。限定版BDも持っているので各種インタビューやQ&A、終末録音まで理解しています。型月系列では一番理解度が高い作品。

「魔法使いの夜」は原作プレイ済み、「月姫」は漫画版途中まで、関係ないけど「CANNAN」わりと好き。というか私の初きのこは「CANNAN」だった・・・

Fateスピンオフ周りは「Fate/Zero」「Fate/Apocrypha」アニメ視聴済、FGOもオリュンポスまでプレイ済(あとアニメ版バビロニア)。

肝心の「Fate/stay night」ですが、完全アニメ勢です。DEEN版とUBWそしてHFという遍歴です。大事な点ですが、原作未プレイ。しかしながら、今回の考察にあたっては初見であったことが疑問へとつながったと思っています。HFに関わるネタバレは徹底遮断していたので、オチも含めて本当に初見でした。

なお、このnoteを書くにあたって、原作版の展開については多少調べています。(鉄心エンドなんてあるんだー感)

本題:そのシロウは本当の士郎?

作画凄すぎとか、アニメ業界人として映像面での感動ポイントは多々あるのですが、本題とは異なるのですっ飛ばしてラストシーンへ。

本作への疑問はこれに尽きると思います。

大聖杯を前に士郎は消滅。主人公として物語の中心にいた士郎から語り手は遠坂姉妹を中心へ。消えてしまった士郎の帰りを待ち続けながら、世界を旅する二人。この旅の目的は士郎を帰還させることだったのかもしれません。

ある街を訪れた際、ついにそのきっかけを掴む。

空の境界ファンとしては最の高、蒼崎橙子さんの明確な後ろ姿が描かれることで、凛と桜が見つけ出した人形が彼女の手によるものが暗示されます。

人形に対して、おそらくは魂を植え付ける魔術を行使する描写でホワイトアウト。笑顔のシロウが戻ってきました。

空の境界をご存知の方にとっては「なぜ士郎が戻ってきたのか」という疑問に対しての答えを示した展開でしたが・・・ちょっと待ってください。

出ている解釈としては「蒼崎橙子は『本人と寸分違わぬ人形をつくることができる』という能力で士郎の完璧な肉体を作って魂の入れ物としたから士郎は戻ってきた」とされていますが、そもそも寸分違わぬ人形を明確に作っているのは空の境界で出てきた蒼崎橙子本人のためのもの。劇場版HFに描写された人形は、青子人形的な、あるいは劇場版空の境界で伽藍の堂に置かれた人形のようなもの。これが寸分違わぬ人形と呼べるのでしょうか・・・。

そしてもう一つ。本当に演出の問題か、尺の問題か、戻ってきたシロウは、たしか「桜」と笑いかけるだけで、それ以上の描写はありません。優しく桜に笑いかけるシロウが残るだけで、他の描き方はなされていません。戻ってきたシロウのパーソナリティに対して大きく情報が欠如しています。(語り手もシロウに戻りません)

ここから導き出される結論として、戻ってきたシロウは魂こそ繋がりがあれ、肉体は蒼崎橙子の作った人形を元にした、別の存在であるということ。人形が元ということもあり、そもそも人間なのかという疑問も残る。

ここにおいて、劇場版で蒼崎橙子が出てきてしまったからこそ、辻褄が合うように見えて、完全な形のハッピーエンドではないことを想定せざるをえません。そして、初見だったからこそ、ラストは大団円であるというバイアスがなかったことも疑問を抱くきっかけになってしまったのかもしれません。

士郎ではないシロウと歩む桜は罪と矛盾を抱えて行きていく

ハッピーエンドじゃないと言いたいのか。と言われるとそうではありません。仮にシロウが別の存在であったとして、HFの持つ作品性はより強化されると思いますし、この解釈をしたからこそ上映後に立てなくなりました。

それは矛盾を描き続けているということ。士郎の考える正義のあり方、誰かを救うためには誰かを犠牲にしなくてはいけないという点で正義の味方という存在の矛盾。士郎と言峰という相反する存在による最終決戦。何より、桜のあり方。イデオロギーの中に内包される矛盾点こそが人間らしさであり、それをキャラクターで描ききっているところがFateの面白さの本質だと思います。

そして、奈須きのこという作者にとっての真骨頂は矛盾を持った人間の描き方であり、空の境界における実質的な最終決戦第5章の「矛盾螺旋」にある考え方ともリンクします。(HFにおける鍵の描写も「矛盾螺旋」を彷彿とさせますね)

その結果が、桜は罪を背負って生きていく。ラストの桜の白黒混ざった服装や、チビの聖杯くんが桜と共にあること。「春はゆく」の歌詞。などを含めて、桜は黒い桜を持ちながらも、矛盾を抱えながらも人間らしさを持って生きていくという最後。その桜に対する、最大の矛盾が士郎ではないシロウの存在なのではないでしょうか。

Fateは文学という言葉がありましたが、劇場版HFを見て思うことは、矛盾と共に前を向いて生きていくことを決めた桜にとって、象徴的な存在であったシロウが存在として矛盾しながら寄り添っているという姿。

たとえ士郎ではなくとも、矛盾を持った存在であっても、士郎らしきものの帰還を願って凛と旅をした桜。何か目的と手段を取り違えていそうながらも、ついに戻ってきたシロウと共に歩むという終わり方が、実に文学的であり、ほろ苦さを感じさせる秀逸さ。

ハッピーエンドとして捉えられる原作版と比較して、アニメ版はラスト1分の描写でシロウは士郎ではないという恐ろしい可能性と、むしろ作品コンセプトを大いに引き立てる終わり方であることとを総合し、とんでもないオチになったと感涙むせぶ公開初日でした。

以上、原作版HFや型月の設定に疎い人間から見た劇場版HFの解釈の一つとしてご査収くださいましたら幸いです。

※8月18日追記※

想定以上の閲覧数とTwitter上での反応などいただきありがとうございました。第三魔法の設定や原作の描写などを総合すると、シロウは士郎であるというご指摘をいただいております。一方で、シロウが完全な士郎であるかについて、本記事と同様の解釈をした方も一定数いらっしゃるようで、受け取り方の一つとして興味深いと思いました。

TVシリーズ、劇場版、ノベルゲーム、小説、漫画、などメディアが違えば表現方法や組み込める情報量がどうしても変わってきてしまい、それぞれの媒体で捉え方はやはり変わってしまいそうですね。

本記事ではあくまで劇場版でHFを初見したユーザー視点として書かせていただきましたが、原作についても学んでいきたいと思いました。

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