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『コメディ・ブロッサム-女が男を捨てるとき 編-』【短編小説】

 向井佑樹は嗚咽した。

 丸三年間、純情をささげつづけた江梨子にフラれ、すがりついたあげく、ガンメンを三度、殴打されたのである。

 前半はまだ理解できる。

 男と女のいるところに恋はあり、恋あるところにその破綻、また当事者らの悲しみはつきものである。が、女が男に激烈な身体的苦痛をあたえる恋の終わりなど、28歳の若き向井佑樹の〈恋の教科書〉には書いていないはずだった。

「なんじゃこりゃああぁ」

 深夜の阿佐ヶ谷の路地裏で、手の甲に不吉な色合いを帯びてまがまがしく付着した鼻血を見て、向井佑樹は叫んだ。

 松田優作の殉職シーンばりに、叫んだ。

 しかし向井佑樹を待ち受けていたのは、名誉の殉職でも、信念の死でもなかった。〈恋の終わり〉という逃れられない残酷な現実だった。ときにそれは死よりも人を苛み、苦しめる。

 江梨子の〈決別の右ストレート〉は、向井佑樹を阿佐ヶ谷の夜空に葬った。

 三度目のパンチが右頬をとらえた瞬間、向井佑樹の脳裏にはいくつもの真夏の星が流れた。意識の奥で、言葉にならない言葉を噛みしめて、向井佑樹の躰は三秒ほど宙を舞った。見事なKO負けだった。

 破局の原因は向井佑樹の浮気である。

 友人が誘ってくれたバーベキューで知り合った女の子と、ふたりきりで二度目の食事をした際、映画好きだという彼女と『タイタニック』の矛盾点とつまらなさについての話が弾んだそのいきおいのままホテルに行って、向井佑樹は一夜限りのディカプリオになった。

 沈みゆく儚い愛のタイタニック号の船首にて、

「僕にはアイテがいるんだけど、今夜だけは、マイ・ハート・ウィル・君だけに・ゴー・オンだよ」

 という名ぜりふを残したことは、向井佑樹の記憶にあたらしい。たしかローズは、

「このままあなたと愛の海を漂流してもいいのよ、レオナルド」

 と言った。

 海の底まで即刻沈んでしまうべき、阿呆二人である。

 ところが、タイタニック号が完全に沈没してしまう前に、江梨子が向井佑樹のスマホを盗み見た。そこには『タイタニック』の脚本よりも中身の薄い、愛のやりとりが記録されていた。

 そして、今宵の〈決別の右ストレート〉に至る。

「愛の海とかキモんじゃ」

 と江梨子は言った。ほんとうにその通りだと思った。心底自分をキモいと思える経験は、人生においてそうないだろう。

「心を入れ替えて――」
 言いながら、このせりふは江梨子とのあいだで通算二度目だな、と気が付いた。胸中にはセリーヌ・ディオンの『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』のイントロが流れはじめた。あのパセティックな音色はアイルランドの縦笛らしい。そのことを教えてくれたのは、もう会えないであろう、例のローズである。

 ああ、ローズ。ボクはいま死よりも苦しい、海の底にいるよ。

 そう胸の奥でささやいたとき、右ストレートは飛んできた。

 向井佑樹はガンメンの筋肉がチーズのように裂けるかと思うほどの一瞬を、永遠ともいうべき永さで彷徨った。緊張と弛緩をものすごい速度で繰り返した向井佑樹のガンメンは、殴打から解き放たれた瞬間、彼を阿佐ヶ谷の夜空にふっとばした。

『マイ・ハート・ウィル・ゴー・オン』は、『太陽にほえろ!』のテーマに変わった。

 かろうじて両膝を地面について意識を保ったが、江梨子に向井佑樹のさいごの懇願と謝罪の言葉はとどかなかった。――

 遠ざかる江梨子の背中が夜の彼方に消えてから、ずいぶんと長い時間が経とうとしていた。いや、それはほんの数秒なのかもしれない。向井佑樹は時間感覚を失うほど弱りきっていた。『太陽にほえろ!』のテーマは流れつづけていたが、東の空に燃える太陽は昇る気配すら見せようとしなかった。阿佐ヶ谷の夜は長い。

 もういちど、弱く小さい声で、

「なんじゃこりゃあ」

 と繰り返してみた。

 どこかで猫がにゃあと鳴いた。

 向井佑樹は鼻血で汚れた掌を夜空にかかげた。アイルランドの縦笛の音色で、脳内の『太陽にほえろ!』を掻き消そうとしてみたが、無理だった。とめどなく涙があふれた。

 ローズのラインの履歴を消してしまったことを、かなり後悔した。〈終わり〉

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