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『進撃の巨人』de心理学⑤

 
この作品の根底にあるテーマ。
 
それは、「大衆観念」と「個人の幸せ」
その天秤だとわたしは思っています。
 
 
ここで言う大衆観念とは、
 
人が二人以上で生まれ得る共通認識と連帯感が
過度な他者排除と思い込みになったもの

のことです。
 
 
大衆観念はあらゆるところに現れていて
人々は知らぬ間に、いつの間にか
何かしらの観念に侵されている。
 
それはリアルな世界でも同じでしょう。
 
 
  
  みんな、何かに酔っぱらってねぇと
  やってられなかったんだなぁ…
 
 
 
そうとは分からないまま
人生を終えてゆく人もいる。
 
氣がついていても
抜け出すことをしない人もいる。
 
盲信するあまり
暴走する人もいる。
 
 
それは本当に自分自身の幸せでもあったのか、と問うてみたならば
 
一体どれくらいの人間がそれを
正確に答えるでしょうか。
 
 
大衆観念に侵されているときたいていは
自身の幸せを守れていない。
 
 
自身が本当に望むもの
 
自身が本当に守りたいもの
 
自身が本当に成したいこと
 
 
それらから巧妙に目を逸らしている。
そういうものなのでしょう。
 
 
自分自身の幸せを守ろうとすればするほど、
目の前には試練がやってくるから。
 
 
手離す理由は多い、けど
己を貫いた先に見たい未来が見えるとは
限らないから。
 
自分の幸せを犠牲にして生きる方が
はるかにラクだから。


 

多数に呑み込まれてゆく
与えられた感情に身を委ねる
 
そこに、生きる実感は無くとも
なぜか自己重要感には浸れるから。

優越感…
使命感…
執着…
 
 
誰かの命を踏みにじることであっても
誰かの尊厳を傷つけることであっても
 
自分は正しいはずと言い聞かせて、
信じたものを頼りに。
 
 
 
観ているだけで苦しくて苦しくて
そして虚しいこの感じ。
 
そう、どこまでいってもこの作品は
虚しさが付いてくるのです。
 
 
誰もが自分以外の何かにすがり
どうしようもなく何とかしようと
もがき苦しんでいる感じがする。
 
 
そこには何とも言えない空虚な氣分が
…あるのです。
 
 
それはたぶん
 
それぞれがそれぞれ個人の幸せを
指向していないことに由来するのだ、と
わたしは思っているのです。
 
 
己を犠牲にするからには代償が必要で、
それは「正しさ」の場合が多い。
 
 
「正義」とも云いますね。
 
 
どちらが正しいか、という論争は
あまりにもあるあるだけど
 
この世で最も不毛な争いと思うのです。
 
 
どちらが正しいか、なんて
観ている視点によって異なるから。
 
 
時代が変われば
土地が違えば
所属が違えば
 
正しさは変わる。
 
それが正義というやつです。
 
 
 
アテにならないんだよ。
 
なのに、正義で他者を屈しようとする
それが人の争いというものなのでしょう。
 
 
 

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