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宮古島に行ってきました!

 沖縄本島から南西に約290km離れた場所にある、宮古島。今回はそこで【国際サシバサミット2021】が行われるということで、飛行機を使って遊びにやって来ました!

 小生が到着したのは下地島。そこから宮古島まではシャトルバスが一日に片手で数える程度しかなく、小生はそれを逃してしまったのでタクシーを使うことに。思ってた以上に離れていて、4730円もかかっちまいました。高ぇ(笑)
 まぁ、コロナ禍で観光客も減っているでしょうし、お布施と思って……。泣いてないよ!

 とまぁ、そんなこんなで宮古島にやって来て、とりあえずラムサール条約登録湿地の与那覇湾へ!


 もう、海が綺麗すぎて驚きを隠せません(笑)全体的に透明度が高すぎるんですよ。


 早速、ラムサール条約登録湿地の所以について調べてみましょう!


 宮古島がラムサール条約登録湿地に認定されたのは2012年の7月3日。沖縄県全体の湾内面積の中で最も広大な与那覇湾は、その最大水深が2mしかないという非常に浅い特徴も相まって、渡り鳥の中継地点として役立っているようです。
 多くの渡り鳥にとって重要な中継地点でもあり、そして越冬地でもあるここ与那覇湾。そこには毎年無数のサシバが訪れるそうです。その数なんと、1万を優に超えるほど!
 そのため、与那覇湾及びその周辺は日本の重要湿地500にも選定されているそうです。

 そんなサシバの多く飛来するこの土地には、その地域だからこその特殊な文化もあるようでした。
 それがなんと、サシバの食文化。

 1960年代頃、10月にサシバが渡ってくる時期になると、島中の人々がこぞってサシバ猟を行っていたそうです。
 当時、サシバを捕らえるのは島民にとっての楽しみでもあったようで、人気の狩猟スポットはみんなで落札し合ったのだとか。
 その時に落札で使われたお金は、運動会や島を維持するためのお金に使われたそうで、サシバの存在が島を支えるまでに重要だったのは言うまでもないかもしれません。
 また、凄まじい数のサシバが飛来してきたようで、頭の上に芋のつるを乗せておくと、止まり木が見つからなかったサシバがその頭に乗ったそうです。
 猛烈に長い距離を移動してきたサシバは、かなり疲弊しており、何かあっても逃げる元気がほとんどないのだとか。
 ですから、頭の上に乗ったサシバをそのまま素手で捕まえた。なんて話もありました。

 戦前は宮古島全体で1500~2000個ものスギャと呼ばれるサシバ捕獲専用トラップが作られていたそうで、計算上一年間に10万羽のサシバが犠牲になったとも考えられています。
 サシバは田園風景を好みますから、耕作放棄地の増えた昨今こそ子育てが苦しいでしょうが、戦前の日本だとかなりの数が育ったと考えられます。
 タクシーの運転手曰く、昔は空が真っ黒になるくらい大量のサシバが飛んでいたとのこと。
 それだけ沢山いたサシバですが、年々姿を減らしていったそうです。
 原因として考えられるものの中には、サシバの子育てをする場所がどんどん減っているから、というものがあります。彼らは田園風景を好み、そこに住む蛇やカエルやトカゲ、バッタを捕食します。ところが、日本人のほとんどが田園を捨て、耕作放棄地に溢れてしまった昨今、サシバを育む土地が減ってしまったのかもしれません。

 他にも、宮古島自体に木が減ったからじゃないかという話をタクシーの運転手さんから聞くことが出来ました。
 曰く、昔は鰹節を燻すために松の木を多く切り倒していたそうで、その松が無くならないようみんな植樹もしていたんだとか。ところが、最近はそんな松を必要とする人が居なくなったため、森を管理する人が減り、サシバの休憩地点が無くなったのではないかという話でした。

 そして別の可能性として、食べすぎてしまったからではないか。というのもあります。
 そうです。取りすぎてしまったのです。人間が。

 戦時中、サシバは貴重なタンパク源として食されていたそうですが、戦後しばらくアメリカの植民地になってからも、サシバ猟は続いていたのだとか。

 捕獲されたサシバは、食料となり、羽は箒として使われ、いくつかの個体は生きたまま子供たちのペットとして飼育されることもあったのだそうで。
 市場にも売り出され、貴重な換金動物として利用されており、1972年の沖縄返還と同時に日本の法律『鳥獣保護法』が適応されるまでは日常茶飯事にサシバが捕獲されていたそうです。

 いや、法律が入ってきてもなお、人々はサシバ猟を続けていたのだとか。染み付いた文化というものはそう簡単に直らない。仕方がないことといえばそうかもしれません。今まで当たり前に食べてきた。それを急に変えるのは難しいことです。

 しかし、サシバからしたらたまったもんじゃないですよね。4000km以上を渡るサシバ達が、休憩の為にと立ち寄った島。ところがそこは、サシバ達の命を狙う人々の溢れる島だったのだ……!
 そんな現状を変えるべく、久貝勝盛さんらが中心となって、サシバの保護活動行ってきたそうです。
 ところが、「季節の物(サシバ)を食べないと風邪をひく」などの迷信が浸透していたり、食文化や換金動物としての価値があったりと、なかなかサシバ保護の思想は浸透しなかったそうです。みんながみんな、サシバを捕まえたくてうずうずしていたのだとか。そのため、サシバの調査を行えば必ずどこかの民家で密猟したサシバが見つかったそうです。

 しかし、長い地球の歴史と共に生き抜いてきたサシバが絶滅してしまえば、もう二度と同じ種類の生き物とは出会えない。一度サシバが絶滅すれば、定期的に渡ってきた彼らによって培われてきた宮古島の生態系すら大きく崩れてしまう。そうした自然の変化は回り回って人間にまで押し寄せてくる。
 そういう訴えを、大人のみならず次世代を担う子供たちにも行い、環境教育に力を入れ続けてきたからこそ、今となっては島民全てが協力しサシバを守ろうと気持ちを固めることが出来たのだとか。
 目をつけたのはバッタだそうです。バッタは害虫としてかなり島民から嫌われています。ところが、サシバはそのバッタが大好きです。一日15匹は食べるとされており、さらに1万羽のサシバが居たとすれば……すごい量のバッタが食べられちゃいますね。農薬代が浮きますね!
 むしろ、宮古島はそれだけ大量の渡り鳥を受け入れられるくらい豊かな島だったという証拠でもあります。
 そんな素敵な島だからこそ、サシバをみんなで守っていきたい。
 その思いは徐々に広まり、いつしか島中が同じ思いになったのだとか。


 2005年、サシバは宮古島の市鳥となった。
 2007年、日本で一番サシバの繁殖密度が高い栃木県市貝町と宮古島市がサシバを通した交流都市協定を結んだ。


 この流れからも、人々の価値観や文化を変え、サシバと共に生き続けることを選び、守るために努力してきた人々の活動が見える気がします。

 人々が無数にいたサシバを食べることで培ってきた食文化。そして今、数を減らしていく中で自然を守りサシバを保護する方向へシフトして行った文化。そこに国境はありません。
 フィリピンや台湾などにも飛んでいくサシバですが、他の国でも密猟され、食べられているそうです。
 渡り鳥を守るために、日本だけでなくより多くの国の人々とも協力する必要がある。だからこそ、今までの文化を見直す時だと訴え、人の心から変えていく必要があるのかもしれません。

 この話を見て、他人事ではないなと小生は思いました。
 近年、海外のウナギはワシントン条約により全て保護対象となりました。ニホンウナギのみ、絶滅危惧種でありながら食文化を維持するために消費され続けています。
 報告によれば、ワシントン条約で守られているはずのヨーロッパを中国が密猟し、それを日本に流していたことまで判明しています。

 日本は、密猟大国にして絶滅危惧種を喰らいまくる国という見られ方をしているのです。

 海は繋がっています。空も繋がっています。生き物たちに国境はありません。

 文化は大切です。人々の歴史がそこにありますから。
 しかし、これから先の未来のために、文化を見直すことも大切なのではないでしょうか。

 そんな事を、学ぶことが出来ました。

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