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「裾野を広げる」と「選択と集中」

出張で韓国に行ってきた。
急速に変化している韓国では、言語の変化も早いけれど、文化の変化も早い。

昔は食堂ではベタ座りでオンドルで暖まりながら卓袱台でうまうま言うてたものだが、いま、ソウル市内でベタ座りでオンドルの店はほとんど見ない。

バスの中が賑やかだったのも今は昔、ここどこ? てなくらい静かである。
これはきっとそうなのだと思うのだけれど、経済的な豊さと五月蠅さは反比例する。根拠はない。

さて。

珈琲屋さんが街中に出来ているのも大きな変化だと思う。少し前はthe coffee beans and teaみたいな大型チェーン店が人気だったけれど、最近はチェーン店もさることながら、小さな個人経営のカフェが増えている。しかも、店が独自に焙煎機を持っていたりして、独自のブレンドや焙煎で商品を出していて、昼時ともなると人々がこぞって珈琲を買いに来る。

私が入ったカフェでは、わざわざホットコーヒーを作って、それを氷に入れてアイスコーヒーを作っていた。手が込んでいる。日本の場合、アイスコーヒーを頼むと、パックのアイスコーヒーをちゃーっとする店が多い。

要するに、珈琲を楽しむ人が、昔と比べて格段に増えているのだ。そして、それだけの数が珈琲を飲むようになると、その中から、もっとおいしいものを、とか、もっといいものを求めて、自分で店を作ったりする人が現れる。それが、韓国の珈琲のレベルを飛躍的に上げている。

「選択と集中」という言い方が、日本でされるようになって久しい。
限られた資本を薄く広く投資するのではなくて、ある一点、そこに発展や進歩の芽があると思われるところに集中的に投資するというやり方である。大学の研究費などはこれが典型的で、「世のため人のために役立つ研究」、もうちょっとあけすけに言えば「儲かる研究」に金が注がれる。

それはなんでもそうで、儲かりそうな話にはたくさんの金が流れるが、伝統芸能のようなものは予算が減らされたりして、文楽なども苦境である。

韓国の珈琲の話でも明らかだと思うが、レベルが上がるというのは、それに参加している人がたくさんいる状態と決して無関係ではない。金をたくさん積んだらレベルが上がるという考え方は、一時的にはうまくいくかもしれないが、それに参加する人が少ない(選択されているから)ので、畢竟行き詰まる。

そのようにして、どんどん失速しているように、外に行くと感じることがあちこちで見られるようになっている気がする。

さて、珈琲は?

日本の珈琲のレベルは高いと思う。それは、まだまだ珈琲を楽しむ人に対して、選択と集中の原理が働いていないからではないかと思う。

けれど、韓国や中国の購買力がこのまま上がり続け(韓国では珈琲の平均価格はなんとなく500円~600円くらいで、いまのところ日本と同じかちょっと高いくらいか)れば、良い珈琲豆を買うこと自体が出来なくなってくるだろう。そうなると、おいしい珈琲を飲むということ自体が、お店の努力如何に関わらず、そもそも難しくなってくる。

選択と集中の結果がすべてで日本が失速しているということはないと思うし、日本はまだまだ復活する余地があるのだとも思う。けれど、選択されないものは廃れていくし、下手すれば絶滅する。新たなものも生まれない。

日本人は現状維持が好きなのだと思うけれど、発展、進歩、レベルアップというような視点で世界を見たときに、そのような考え方が日本にとって良いことなのか、考える必要はあるのだと思う。


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