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2月21日 若者も年配者も共に学ぼう

2月21日ですね。


成田氏による、老人は集団自決を云々のコメントが波紋を拡げています。


これ、子供との討論番組でこどもたちにそういう優生思想と取られかねない思想を植え付けた、と論議を呼んでいます。


私にも存命の両親がいます。成田氏の提言を単なる姥捨山への道ととるのなら、私の感情は受けつけません。当たり前のことです。


ただ、前後の文脈を見る限り、成田氏の言葉を姥捨山への第一歩として糾弾するのは、あまりにも一面的だと思うのです。


ありとあらゆる法制度が後手に回り、国が閉塞感で覆われつつある今。

若者が未来に対してどれだけ絶望を感じているか。彼らに思いを致すことは必要でしょう。

成田氏の言葉が誤解を招いたことを差し引いても、この言葉から若者が感じている絶望を汲み取らねばと思います。


その絶望が向かう先は、世代と世代の対立です。世代間格差への憎悪と言い換えてもよいです。


人類の歴史は世代間対立の歴史とも言えます。バビロニアでもエジプトでもローマ帝国でも唐でもインカ帝国でも平安京でも。


ただ、それらの時代を現代と比べた時、大きな違いがあります。

言うまでもなく、人工知能の進出です。


かつては年配者の知恵が尊重されてきました。年配者の知恵こそが民族や集団を導く道標でした。


ですが、今は若者であっても年配者の知識を凌駕する情報源を手にしています。

しかも人工知能は、得た情報の活かし方さえ教えてくれます。


若者が年配者に教えを乞う機会はますます減っていきます。

知恵を授けてくれなくなった年配者は若者の目にどう映るのでしょうか。尊敬と敬老の念を持ちにくくなったとしても無理はないはずです。


しかも、鬱屈した若者にとっては、肉親ならまだしも、感情の交流がない年配者は既得権益を貪るだけの存在と映ってしまうでしょう。


どうすればそれを食い止められるのでしょうか。


私が考えるに、今のところそれを防ぐ道は二つしかないように思います。


一つは、過去の蓄積に訴えることです。人類の発展と生物としての継続は、すべての先人、つまり年長者の存在なくしてできないこと。若者が生まれながらに享受する文明の恩恵は、先人の努力と創意工夫の上で成り立っている事を教えるのです。特定の誰かの功績も、周囲の人々の助けがあってこそ。

もう一つは、年配者が若者に対して教えてやると言う態度で接するのをやめることです。

先日釧路で参加したCLS道東でも、コミュニティの観点からではありますが、まさにそのことが話されていました。

年配者も若者と常に学び、努力し成長すると言う意識で生きていく。功成り名遂げても謙虚に若者に教えをこい、ともに歩もうとする姿勢。

これはかの松下幸之助氏が実践していた姿勢でもあります。

今現在の年配者も、年配者になりゆく人も、そして未来の年配者予備軍である若者も。

等しく謙虚にならなければ。

ありがとうございます。 弊社としても皆様のお役に立てるよう、今後も活動を行っていこうと思います。