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伯父の死と一時帰国(2)

二年ぶりに再会する家族。理由が理由だけに、それぞれがそれぞれの心境で一杯一杯で、私の久々の帰国について何か口にする余裕も無い。遺骨や遺影、葬儀の準備を見てやっと少し伯父の死を実在のものと感じた。祖母の落ち込みが酷く、気の毒に思う。皆歳を取った。自分も歳を取ったのだから当たり前なのだけど。

親戚に会うのは何年ぶりだろうか?老けた上に皆マスク姿で誰が誰だか分からず、お互いに失礼のないよう恐る恐る身元を確かめ合う。

何故今でなくてはいけなかったのか。あと少しぐらい待っていてくれたって良かったじゃないか。かと言って伯父が生きていたら何を話しただろうか。何も思いつかない。私は一度も身内の死に目に会えたことがないな、とふと思う。

伯父の遺品は伯父らしくほとんどが一級品で、引き取り手には困らなさそうだった。持ち主を失った部屋と品々を眺めながら、死んだら何もかも処分に困る不用品になるのだものな、としみじみ思った。あの世には何も持って行けない。そんな使い古された言葉も結局は人の死を目の当たりにしないと真には理解できない。人々は常に金銭や所有物に執着して心配事を増やしている。

昔から希死念慮のある私はあまり物を持たない。別に明日死んでいても構わないと思うことが多々あると、金も物も重要性を失う。最近はミニマリストというカッコいい言葉があるので説明が簡単になった。死にたいと思わずに生きる。多くの人が持たない障壁を乗り越えながら生きている。今は好きな格好をしても、部屋に篭って好きなことをしていても誰も文句を言わない。それだけで生活は楽になる。

雨ニモマケズ…

敬愛する宮沢賢治の言葉が浮かぶ。彼が亡くなったのは37歳の時、私にはあと一年弱。伯父は62歳で、私にはあと26年…その間に私は何をするだろうか。いつまで生きるだろうか。これ以上祖父母に辛い思いをさせられないから、少なくとも祖父母が健在のうちは死なないようにしようと誓った。

隔離期間も含めて一ヶ月半を日本で過ごした。まだ蔓延防止なんとかのせいであまり自由にはできなかったが、一番古い親友と会い、日本食も存分に楽しんだ。家族関係は相変わらず険悪で実家はあまり居心地の良い場所ではないが、それでも地元の風景は度々恋しくなる。祖父母の居る田舎も。

普段はわがまま放題の母も、伯父の身辺整理を全て引き受け大変だっただろうと思うので、私は何も言わずできる限り手伝った。口には絶対に出さないが、恐らく感謝していたのだろうと思う。相変わらず私の男っぽい服装とツーブロックの剃り込みは気に入らないようだったが。孤立する父の酒に付き合い、父と絶交状態の弟とオタクトークを繰り広げ、毎度の家庭内オールラウンダーを果たす。

少々浦島状態の私は中途半端にデジタル化された会計システムに手こずり、進歩は見られるものの、スウェーデンのように番号で一括管理し個人に多くの責任を委ねる社会に日本はまだまだならないだろうと再確認した。国にその技術がなく、国民にも度胸がない。だが、必ずしもそれが最善の道とは限らない。日本は日本独自の道を進んでも構わないのだ。ただそれにしても、人権や福祉に対する最低限の国際的感覚は持たなければ、もう鎖国して存続できる世界ではない。

しかしながら、流行り言葉のようにされているとは言え、今回SDGsや多様性といった言葉を多く耳にし、表向きにも変化を促し始めたことには希望が持てた。正直少し自国を見直した。実際の変化が目に見えて起こるのはまだまだ先だろうが、それでもそうやって新しい「普通」を定着させることは日本にとって重要であると思う。世界基準ではまだ亀の歩みかもしれないが、日本にとっては大きな変化だ。

滞在中に戦争が勃発し、帰りの飛行機はロシア上空を飛べずキャンセルされた。急遽変更の手続きを取り、太平洋と大西洋を一日で飛び越える長時間フライトに。往復共に世相の影響を大いに受ける旅となった。未だ終わりの見えぬ戦争と脅威のインフレ。たった一ヶ月半を挟んで世界はまた大きな変化を見せたのだから、これからもその変化のスピードは否応なしに上がって行く。日本もその流れを避けて通ることはできないだろう。

慌ただしい日々の中、伯父が死んだことを忘れていることがある。今までと同様に日本で生きているような気がする。ここ数年の伯父の生きた軌跡も死んだ姿も目にしていないのだから仕方ないのかもしれない。人の死は全て事実だが、その意味するところはそれぞれに異なる。生が異なるように。どの道同じにはなり得ないのなら、自身の生を受け入れて思うように進んでみるしかない、と思う。

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