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私は大河内さんではなく、加藤さんでもなく、渡辺さんだった。

「はじめまして、突然のメール失礼いたします。

私の祖先、大河内家は、明治維新までは沼津の水野藩士で、明治維新の際に千葉県の菊間に移りました。私はその4代目となる末裔です。最近親戚が家系図を作り沼津藩の大河内與一という人がいることがわかりました。
さて、大河内與一の来歴や家族について調べるにはどこに行ったらいいでしょうか。何かヒントがあればお教えください」。

メールを書いた先は沼津市文化財センター。

返事が来ようと、来まいと、いずれ沼津に行ってみたいと考えていた。

目の前には親戚がまとめてくれた我が家の家系図がある。1805年から2020年までの215年間で183名もの名前が書かれている。力作である。
私も歳をとってきてそういうことに興味が出たこともあるが、私の子供はバンクーバーに住んでいて、おそらくこれからも海外で生活するだろう。その子らが、自分の出自に興味を持った時に、何か資料を残してやりたいという気持ちがあった。そこで家系図の元の方をもう少し深掘りしてみたくなった。

その最初に乗っている人物の一人が先の大河内與一(1805-1873)である。私の4代前の祖先らしい。1805年はどういう年かと調べてみると1602年に江戸幕府ができて203年目。日本近海には諸外国の船がウロウロしていて、ロシアの通商要求を幕府が断ったりして時々緊張も高まったこともあるが、比較的平和な時代で、浮世絵や黄表紙などの町人文化が盛んになった頃である。

沼津の水野藩は家康の母方のいわゆる名門であるが、いわく付きの藩だ。

1701年江戸城の松之大廊下で赤穂藩主、浅野内匠頭が吉良国上野介に切りかかったことをドラマティックに仕立てていったものが忠臣蔵であるが、それからたった24年後またもや同じ松之大廊下で、松本藩水野忠恒(ただつね)が毛利師就(もろなり)に刀を抜いた。乱心した忠恒はその罪で改易となった。多くの武士がリストラされたらしい。

家督は従兄弟が次いで、その子孫が田沼意次の改革の補佐をして水野藩を再興し、三河大浜藩、そして沼津藩で2万石となる。

その後大政奉還で、徳川家が一旦静岡にうつされると、ビリヤードの玉のように、静岡にあった小藩は全国の旧幕府直轄領に移された。水野藩も千葉県市原市のはずれの菊間に移った。菊間藩は廃藩置県まで4年間だけ存在した。今でも我が家の墓は菊間の千光院にある。この寺一帯が菊間藩庁があった場所だ。

このメールを書いた翌日沼津市役所 教育委員会事務局の方からお返事をいただいた。

「この度はお問い合わせくださいましてありがとうございました。
メールを拝見し、ご先祖様の藩士のことをお調べになりたいとのことでしたので、『沼津市史 史料編 近世1』所収の「駿藩士録」を見たところ「大河内與一」の記載がありました。参考までに該当部分を添付させていただきます。

……中略……

どのような経緯で召し抱えられたかという記載がないため不明ですが、添付させていただきました大河内與一がご先祖様で良いようならば、文政13年(1830年)に召し抱えられていることが分かります。

近々に沼津いらっしゃるとのことですが、沼津藩のことなどをお調べになりたいようでしたら、沼津市立図書館2階の郷土のコーナーにございますので、お立ち寄りいただければと思います。
あまりお役にたてず大変申し訳ありません。よろしくお願いいたします」

いえ、とっても役に立っています。

これで行くべきところが確定したから、沼津に行かない理由がなくなった。


送られてきた藩士禄をみると「二十三石弐人扶持被下置御広間御番方」とある。

一石というのは、おおよそ人間一人が1年間で食べる量であるが、下級足軽の標準的な給与であろう。一石は約10万円という説もあり、そうすると年収230万円。ギリギリの生活をしていたのではないだろうか。

もう一つ1840年ごろに作られた沼津藩の家臣の家がどこにあるかを写した地図がある。城の外堀の一番端に小さく大河内と書いてあった。場所と規模からしても、下っ端であることが想像された。

本国尾張、生国武蔵とも書いてある。 本籍地は尾張(愛知県)、生まれたのは武蔵(今で言う埼玉と東京と神奈川を併せたエリア)だ。沼津がある静岡県は飛び越している。

そして與一には子がいなかった。そこで同じ沼津藩士の加藤貞衛の次男、加藤鎮三郎が大河内「牣(ミツル)」と改名し養子となった。つまり私は本当は加藤さんなのだ。加藤家の墓が我が家の隣なのにはワケがあったのだ。

さて、先週の土曜日に早速沼津に行くことにした。運悪く台風が来ており、新幹線も東海道線も午前中は止まり、沼津にたどり着いたのは図書館が閉まる時間だったので一泊することにした。沼津城跡でもあるかと思ったが、石垣が少しあるだけで他は何もなかった。ここまで何も残っていない城下町も珍しいのではないだろうか。

まだ明るかったから、古地図と現代の地図を重ね合わせて、祖先が住んでいたあたりを散策した。写真の右下部分の①とある部分である。現在は駐車場になっていて一部が倉庫。横にNTTのビルが建っていた。地図はその上に梯子のようなものが見える。その辺りを歩いて見るとここは上に向かって(沼津駅の方に向かって)上り坂であった。
これは最初、厩かと思ったが、現代でもこの斜度である。ひょっとしたらこれは階段だったではないか。
階段の下に住む與一は御広間番方であったから、住居も、役職もどうもガードマンらしい。

さて、翌日沼津市立図書館で、水野藩士録やその他の資料に目を通して、関連があるところを写真に撮った。大河内家の與一や牣についてはそれ以上の情報は見つからなかった。

新しい発見もあった。牣の実父加藤貞衛も養子だったのだ。加藤貞衛の実父は渡辺内蔵進だったらしい。つまり渡辺家から加藤家に養子に来ていたのだ。

ということは、私の祖先は大河内さんでも、加藤さんですらなく、渡辺さんなのだ。

渡辺内蔵進は寛政元酉年(1789年)に雇用され、小姓御使者番という役職で55石。與一よりも高級取りだったようだ。係長ぐらいかな。

結局大河内與一が沼津藩に雇用されたのかはわからないままだった。

沼津藩が拡大していく中で浪人が新しく雇用された可能性もある。例えば藩の関係者が、藩の再拡大で親類縁者を呼び寄せたことも考えられる。あるいは殺傷事件でリストラされた家臣の末裔だったかもしれない。

さて家系というのは遺伝的繋がりをいうのか、家のつながりをいうのか、どちらなんだろう。

日本の家系図は家督を継ぐという考えから男系に偏っている。明治維新以前の女性の場合は「奥方」とされたり、誰々の娘と名前もはっきりしない場合がある。婚姻で女性が改名することが多いからなおさらだ。
一方遺伝子の場合は男性、女性に関わらず、遺伝子の類似の程度で血縁の強さを図ることができる。

日本では全く普及していないが、自分の口の粘膜を少し削って試験管に入れて、検査会社に送ることで、遺伝的な繋がりを調べることができるようになった。日本でも昨年から、規制が緩くなったので可能になったが、以前カナダで調べてもらったことがある。

私は母がドイツ人なので、世界中に血のつながった人がいる。さらに2%ユダヤ人が混ざっているので血縁者は北米に最も多い。これはユダヤ系の人が近親婚による遺伝性疾患を避けるため、遺伝子を調べる積極的な理由があるからだ。

ところがその中でカナダに私と0.2%の遺伝子を共有する日系人女性が見つかった。彼女が公開している情報には、なんと祖先は沼津出身とある。そして5代前の先祖の兄弟姉妹の子孫と推定された。ということは、渡辺さんか加藤さんだった頃の親類かもしれない。

これまで家系図というのは主に男系のものであり、かつ大名や貴族のものだった。
遺伝子から調べると、世界中に約1500人の血縁者が見つかった。これからはおそらく国内でも普及して私の知らない親類もっと増えていくのだろう。

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