葉嶋四季

葉嶋四季

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夜の断片

 雨音が脳を痛めつけるようになった一番最初は、何歳ぐらいのことだったろうか。午前二時を少し回った暗い部屋の中で彼は考えた。目は充血しており、全身の肌という肌が赤くただれて、彼の爪の内側には、腐った皮膚の残骸が敷き詰まっている。体はひたすら眠りたがっていた。  シンガイもまた、眠らずにとうとうと考えていた。自分は果たして何歳まで生きるのだろうかと。  彼は二時間前、二十七歳になったばかりだ。何かを成したことは一度もない。  真夜中、男がふっと目を覚ますと、垂れ下がるカーテン

    • 何処へも行けない 3

       ほとんど水道水の味しかしないアメリカンコーヒーを飲み干す頃には、今朝から俺の身に起き続けていた様々な出来事が、どうやら、非常識なことであったと、薄っすらであるが気づき始めた。 「気でも狂ったんだ。」  カウンター席、誰にともなく呟いた。店には俺と店員しか居ない。  年齢は俺と同じくらい。二十代後半に見える正気のない男だ。俺が店に来てからずっとひたすらに本を読んでいる。注文を聞く時も、コーヒーを淹れる時も、カップを出す時も。本の表紙には「ヴェルコカンとプランクトン」と書かれて

      • 何処へも行けない 2

         風のない午後だった。緩やかな下り坂は石畳で形作られ、車道と歩道の境目に咲いた桃色の花の名は、一体何と呼ぶのだろうかと考えていると、 「それはアザレアって言うんだよ。」  と、白色のワンピース、俺の腰と同じくらい、風もないのに髪は揺れ、眼差しは、今にも眠ってしまいそう。 「学校はどうしたの?」  俺は尋ねた。自分のことを棚にあげて。 「貴方と同じよ。」  そして見抜かれた。ふた回りは歳下の女の子に。 「年齢に意味なんてないでしょ? 私の一年と貴方の一年は違うんだから。貴方が毎

        • 何処へも行けない 1

           その女がいつからそこに座っていたのか俺は知らない。女はくすんだ金髪で、化粧の上からでも酷い隈が見てとれたが、それすらも自身の魅力に変えながら、長い脚、透き通った肌、鎖のようなネックレスに趣味の悪い指輪、全てを自分の体として、気怠げに煙草を吸っている。  揺れる車両の中、それを咎める者は一人も居ない。皆、女の態度に怯んだのではない。まるでそれがさも当然の行いなのだと認識しているのだ。流れ行く景色を後ろ背に、煙をくゆらせる女の姿は、息を吐くほど美しかった。  少年が一人、駆け

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          4/7 茹で上がった晴天

           急に暑くなって体が不調。もう随分前から花粉のせいか咳止まらんくて肋の痛みもやばいんだけど、改善することなく畳み掛けられましたね。結構前からストレスを指摘されてたんだけど、解消できぬまま体が少しずつ崩れてゆくのをただ見てる。  最近はハズビン・ホテルにハマってて四六時中再生しているんだけど、観れば観るほど素晴らしいですね。ヘルヴァ・ボスにも手を出したわ。最初の方はふぅんって感じで観てたんだけど、アダムが歌い出した瞬間に俺の中で切り替わったんだよね。音楽良いよこれ。ハズビン・

          4/7 茹で上がった晴天

          王子様

           夢の中だけが私の居場所。静謐な空気の中には酸素がなくて、代わりに含まれた泡の元素が私の命を押し留める。私には酸素が毒だった。  色もなく、音もなく、臭いもなくて、意思もない。  この場所にしか、居たくない。  だからこそ、寝かせておいて欲しかった。それなのに、王子様はいつだって私を陽の下へ起こしたがる。私がにこりと微笑んで、頬を赤らめ、その唇にそっと口つけることを望んでいる。それから私を抱き寄せて、とてもではないけれど、口にできないようなこと。王子様はいつだってそれを愛

          エリ

          遠くで鳴る鐘の音の階に座っていたのは もう 随分と色褪せたあなた 箱庭の中の楽園にも 収穫の時が来るだなんて 一体 誰が知っていただろう 自己陶酔した醜い神の手が 僕らの首に刃を遣わす 誰も生んでと頼まないのに 誰も殺してと願わないのに 僕らの祈りは鐘の音に掻き消され 鏡で濁った神の視線が 僕らを捉えることはない 痛んだ肋から盗まれた肋骨を 僕らはずっと探していた 小さな箱庭を囲む大きな箱庭の端から端までは果てしなく 肋の痛みで歩くのをやめ 教会の門の外でうずくまる

          夜の淵

           揺れる鉄条網の音で浅い眠りから目を覚ます。多分、夢を見ていたのだろう。何かを忘れているような寂しさが瞳の奥に残っている。あまり良い夢ではなかったと思う。寝汗が酷くて体が重い。  水が欲しくて人を呼ぶ。鳴らしたベルは暗闇の中で孤独に転んでいつまでも残響しまるで馬鹿にされているみたい。聞こえているのかいないのか。こちらが知るすべなどありはしない。彼らはいつだって来るのが遅い。本当に僕を監視しているのか怪しいものだ。体のどこかを切りつけてみれば、彼らの監視具合も分かるのだろうけ

          モーニングニュース

           今朝三時頃、郊外の人工動物研究施設から一匹の被験体が脱走した。  その被験体は人間に対して何ら危害を与える生き物ではなかったけれど、体長およそ三メートル、足は四足、指は左に七本ずつ、右に四本ずつ、爪の形状は菜切り包丁と酷似しており、全身が鱗状の皮膚で覆われていて、目は、体格に対して不釣り合いなほど小さな目は、狂犬のようにギラついているが焦点は合わず、鳴き声はギィギィと不明瞭、とてもではないが人畜無害には見られなかった。  被験体は二時間ほど、寝静まった市内を練り歩いた後、総

          モーニングニュース

          ヒトモドキ

           今朝もあの娘と目が合った。学校へ行く前の憂鬱な時間、セレクトショップの前の交差点で、信号が青色に変わるのを望んでもいないのに待っている僕と同じように、あの娘も並んで立っている。  一日の始まりを嫌っているのに避けられない。憂いを帯びたその表情は、僕と同じようなことを考えているって教えてくれる。多分。きっとそう。  その服、凄く良いと思うよ。  浮かんだ言葉は言えない言葉。週に一度洗うか洗わないかの学生服姿の僕と違って、あの娘はまるでモデルのよう、誰かに着せられているので

          ヒトモドキ

          お人形遊び

           形見分けしたビスクドールが、ブロンドの髪の生白い少女が、艶やかなその青色の瞳を独りでに動かしていると気がついたのは冬の終わりのことだった。  今年初めて目にした雪は、春と見紛うほど暖冬だった二月を半ば以上も過ぎた頃、乾燥しひび割れた空からしとどに落下し街を沈めた。  あ、止んだ。午前十一時十七分。窓の向こうは雪景色。白色以外に何もない。私の目が、まだ覚めきらない微睡みの瞳が、その次に映した色彩は青。くすみ一つなきガラスの球体。私にはそれが何かまだ分からなくて、けれど、体は

          お人形遊び

          birthday

           「シャングリア」のバースデーケーキは直径が十五、高さが十、高さ三につき四つずつ、苺と蜜柑が生クリームに塗れていて、スポンジの硬さは家のオットマンの半分くらい、チョコレートプレートは、長さ九のホワイトチョコレートプレートに刻まれているのは、俺の名前と月並みな祝辞、蝋燭の数は十四本、一本につき二年の歳月。  最後の最後で爪が甘いのは学生の頃から変わらない。まだ月に一度美容院に出かけていたあの頃から皆歳だけ取って何も変わっていない。去年から旦那に料理を振る舞うようになった美春は

          2/11 何の変哲もない晴天

           今週末には、ついにカート・コバーンより年上になってしまうというね。その次は志村かな。やってられんよ。でもまあ、この先も息してるんならちゃんと生きないとってカール・バラーも言ってたし。それにはまあ同意するよね。  最近の話をしようかな。体調はあんまし良くないけど、精神状態はわりかし良いかな。眠れないんだよね。起きちゃうというか。毎回寝覚めに嫌な奴の顔が浮かぶんだよね。悪夢を見ているんだと思う。ストレスかなぁ。花粉のせいもあるだろうけど。  それでも精神状態は結構良さそうに思

          2/11 何の変哲もない晴天

          失明

           そして太陽が三度回転し始めた時、人々は口を閉じ忘れて空を見上げた。一度目の回転で揺らいだ街の景観に、人々は本能で顎を天へと突き出した。二度目の回転で捻れてしまった自身の影から目を逸らすようにして空を睨むと、太陽はもう三度目の回転をゆっくりと行い始め、人々の眼球の中でその異様な仰々しさを擦りつけるようにして燃えてみせた。  太陽なんて、どうでも良いから。少年はただ一人、その奇跡を見逃していた。少年の恋人はその日の朝に息を引き取った。発狂死だった。生きていることにアレルギーを

          、一瞬。

           少年が歩道橋から足を滑らせた時、その場には誰一人居合わせなかった。  少年の体調はここ何週間か優れなかったが、昨夜は特に酷かった。少年はろくに眠れなかった。髪の毛の下を這うように広がった”喪失”の症状が少年の体を蝕んだのだ。少年は薬局で買った”喪失止め”の錠剤を飲んだが効き目はなかった。一度に三粒飲まなければならない錠剤を、少年は一粒しか飲まなかった。三粒飲んでも効果がなかったからだ。少年には金がなかった。  その日はその年初めての降雪があった。観測史上稀に見る豪雪で、

          riot at am

           列車の中で暴動を起こす、あの老人達を見ていたか?     午前七時十二分。消せないシワだらけのワイシャツをくたびれたスーツからはみ出させたサラリーマン達は空っぽの鞄を枕に使って瞼を閉じ、デスクに首輪で繋がれた悪夢にうなされているか、手の平にクレヨンで刻印された平仮名のジュブナイルを眺めているかのどちらかだ。  老人達は森の蝉から盗み出した催涙スプレーを両手に暴れ回った。悪夢にうなされていた者達は騒ぎ声にその眼を開き、再び閉じた。そこにあるのはもう現実の痛みだけ。彼らは眼科へ