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何処へも行けない 4

「六百四十円ですね。」
 随分安いもんだと、そう思った矢先に、ようやく自分が何も持っていないことに気がついた。ポケットの中には何もない。分かっていても、触って確かめずにはいられない。今朝の電車で、あの女に気を取られすぎたのだ。足元に置いていたあのカバンに全てが詰まっていた。そう、文字通り俺の全てだ。今の俺には何もない。何も持ってやしない。思えば、あのカバンにだって価値があった。六万八千円はした。さっきのランチが百食は食える。

 途端に全てが空恐ろしくなった。今の俺には、たかだか六百四十円を支払う能力さえないのだ。ランチ前の無気力な解放感が嘘のように俺の中から消え失せて、今や熱狂的な閉塞感に縛られている。まるで麻酔が切れた後のよう。いや、まさにそれと同じなのかもしれない。俺は今朝から頭がおかしくなったのではなく、ただ単に、腹を空かせていただけなのかもしれない。

 俺は腕時計を外してみた。二十三万四千円。外しただけだ。これをどうするとも考えてはいない。店員は相変わらず本を読んでいる。こちらにまるで気をやっていない。俺がこのまま出て行ったらどうするのだろう? 実際、ランチ前の俺であったら、きっとそうした。けれど体は良くできている。とてもではないが走れないし、そもそもそんな気にもならない。
「お困りですか?」
 不意に後ろから声をかけられた。気味悪いくらい満面の笑みを浮かべた男が立っている。まるで雑誌か何かの撮影のよう、今まさに、どこかでシャッターの切る音が聞こえてきそうなほどだった。俺は男に見覚えがあった。いや、その笑顔に見覚えがあったのだ。友人知人の類ではない。昔どこかで観た映画、あるいは読んだ本にでも。つまりは、その男の存在がフィクションに思えたのだ。ランチ前の続きが始まってしまったような雰囲気がある。ただ一点違うのは、俺はもう、この馬鹿げた白昼夢のような状況に対して、鈍感に接せないってことだけだ。

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