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<兄の話:9杯目>搬送前夜

兄が病院に運ばれた前日、兄の彼女が出ていった。
出ていくタイミングを作ったのはわたしだった。
彼女は別れたと言っているので、正確には(元)彼女になる。

彼女が兄と付き合っていたのは3年くらいだと思う。
付き合っている女性がいると聞いた時は驚いた。
なぜ兄と?、と不思議に思った。
家族のわたしから見る兄と、彼女から見る男性としての兄は違うのか、いずれにしても男女の関係については当人同士の問題だし、わたしから兄はこんな人間ですからお薦めできませんと言ったことはない。

一度だけ彼女に会ったことがある。
兄と連絡が取れる様になって直ぐの頃、彼女が距離を置きたいと、半同棲の兄の部屋から出ていったことがあった。
兄はわたしに働いていると言っていたのだが、実は2年程働いていておらず、その間の家賃、光熱費、携帯料金、すべての生活費を彼女が出していたそうだ。
彼女がいなくなった後、どうしようと狼狽する兄に、復縁したいのなら仕事を探して今すぐ働くように発破をかけた。
1週間もしない内に兄は仕事先を決め、そして彼女は戻ってきた。
仕事が決まったお祝いにと食事に誘ったのだが、兄が彼女を連れて行きたいと言うので3人で会うことになり、この時に彼女と連絡先を交換していた。
なんとか復縁したいと仕事を決めた兄だったが、後で聞いたところによると、結局数週間で辞めてしまい、その後も決まっては辞めてを繰り返していたらしい。

兄がどうしているかというのは、いつも後から耳にする。
子供じゃないのだから、何事もいちいち報告する必要はないと思うが、兄がいつも事後報告なのは、定職についていないことを知られ、口うるさくお小言を言われるのが嫌だったからだと思う。

そんな中、7月頃に珍しく兄の方から電話を掛けてきた。
新しい仕事で身元保証人の書類提出が必要になり、サインして欲しいと言う。
わたしは、兄の”保証人”の類は絶対ならないと決めていた。
が、提出しないことには働けないだろうし、書類や会社自体も確認するとまともだったので、結局サインした。
書類を返送したと連絡した際、ごはんでも食べようと兄を誘った。
丁度お盆の頃に日にちを設定していたのだが、前日に風邪気味なのでと連絡があり、お流れとなった。
後で分かるのだが、わたしが書類にサインした会社は、この時すでに辞めていた。

9月に入り、仕事も少し慣れた頃だろうと、また食事に誘ってみた。
兄から返信があり、お互いの予定が合う9月後半の連休に約束を取り付けた。

そして、兄と約束した日がやってきた。
場所は兄のマンションから歩いて5分の居酒屋だ。
下町の有名な居酒屋らしい。
2日前に兄から場所の指定を受けたのだが、わたしは単にお薦めだからこのお店にしたのだと思っていた。
兄に会うのは彼女と3人で食事をした日以来だ。
約1年振りにあった兄は、ますますガリガリになっていた。

久しぶりだね、仕事はどうだいと話しを振ると、『うん、まぁまぁ』と元気のない声が返ってくる。
まだ仕事に慣れていないのかな?仕事が大変なのかな?
そう思って当たり障りのない話題に変えた。
兄はこの日ビールを飲んでいたのだが、1杯目の半分辺りまで飲んだところで、兄の様子に違和感を覚えた。
会話をしていても、顔をこちらに向けず、ひたすら携帯をいじっている。
メールやLINEを見ていたのだと思うが、返信する為にタイプする様な動作はなかった。
ただ、画面を覗いているだけ。
さらにビールを飲む内に、会話をしていてもやはり様子がおかしいと思った。
彼女の名前を間違えたり、わたしが会ったことのない兄の知人の話を、さも共通の知り合いの話の様に話したり、脈絡のないことを言い出したり。
メニューを見ていた時、今日はまだ何も口にしていないと言っていたので、この時わたしは(空きっ腹で酔いが早いのかな)と思っていた。
その内、兄はわたしが書類にサインした会社を辞めたことを告白してきた。
辞めた理由は、仕事にならない程体調が悪いからだと言う。
フラフラで仕事をしている兄を見て、会社から試用期間で辞めてくださいと告げられたそうだ。
そして、今は働ける様な調子ではないので生活保護を受けて、生活を立て直したいと思っていると口にした。
体調を整え定職に就き、いずれは彼女と結婚したいとも話していた。

話が一段落し、3杯目を注文しようとする兄を諫め、体調悪いなら今日は帰ろうと言いながら、わたしはレジに向かった。
わたしが会計をしていると、後ろから何かが倒れる音と、他のお客さんの『大丈夫ですか?』と言う声が聞こえてきた。
振り返ると兄が床にひっくり返っていた。
大丈夫ですと言いながら、起き上がろうとしているが、上手く起き上がれないでいる。
急いで会計を済ませ兄の元に駆け寄り、手をひきながら、謝りながらお店を出た。
今思えば、兄はお酒を飲んで歩行困難な状況になるのを分かっていて、近所のお店を指定したのだろう。
お店を出た後も千鳥足の兄をマンションの入り口まで送り、彼女がいるから大丈夫だという兄と別れてわたしは帰宅した。

翌日、彼女から兄が搬送されたと連絡が来たわけだが、わたしが兄と食事をしている最中に彼女が出て行ったことも知らされた。
また、最近の兄の様子も交えて、彼女はもう二度と会いませんと宣言した。
朝から晩までお酒を飲み、歩行困難な状況は日常的になっていたそうだ。
更にこの数日はロクに眠らず、見えない誰かと会話したり、誰かが部屋に入ってきたと怯えていたという。
別れたいと話せば、死ねと言っているのかと騒ぐ始末で、家から一歩も出ない兄の元を、荷物を持って何時逃げようかと思案していたところ、わたしと会う為に兄が出掛けたので”今しかない”、と出ていったとのことだった。

彼女が去るのは当然だろう。
好きだった人がそんな状況になっているのを見たくないだろうし、自分では変えられないと考えたのではなかろうか。
色々辛かったと思うし、申し訳ないと思う。
彼女には、「兄の様子は報告しない。もう忘れて新しい生活を送ってください。」と返信した。

兄は彼女のいなくなった部屋に帰って何を思ったのだろう。
絶望して死んでもいいと思い、お酒を飲み続けたのか。
それとも、これから真面目になって彼女に会おう、だから今日だけはと思い、お酒を飲み続けたのか。

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