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感性とは脳みそから与えられるものなのか?


私たちの頭には、脳みそっていう、得体の知れない物質が詰まっている。
頭蓋骨に閉じ込められ、髄膜に守られ、髄液に包まれ、肉体に魂を宿し、司令塔として体を動かし、そこに君臨している。

脳の多くのことがまだ未解明で、世界一の頭脳を持つというアインシュタインの脳は、ホルマリン漬けにされ、保管されているという。
人間を人間たらしめている臓器の、何もかもが不明瞭なんて、ちょっと皮肉ともいえるし、ロマンでもある。

―――このコーヒー熱すぎてのめないよ。冷めるまで待とう。
―――あぁ、仕事行きたくない。絶対行きたくない。
―――あの人、何してるかな。ラインしたら、迷惑かな。

そんなかわいらしいことも、あんな厳格な臓器から生み出されたものだと思うと、愛おしく感じられないだろうか。


脳みそは、一人に一つ、平等に与えられ、世界の隙間を埋めてきた。
この臓器の難しいところは、無意識に使うことができる部分と、自発的に使おうとしなければならない部分があるということ。
でも、それが面白い。

勉強はまさに自発的脳みその得意分野だけど、学生でなくても、「楽しく」生きていくためには自発的に使いこなしていく必要がある。

考え事をしていると、不思議と自我をはっきりと感じるけれど、
時折、自分の中に別の誰かが住み着いているんじゃないかと心配になる程、「脳」の存在も強く感じることがある。
特に地獄絵図のような悪夢を見させられるときは、「脳」が「わかってるか。俺のおかげでお前が生きれてるんだぞ。こうでもしないと、気付いてくれないだろう。たまには思い出して、感謝しておくれよな」と主張しているようだ。

まとめると以下のようになる。

私が認識している脳の住人は3人。
自我…この文章を書いている。
自発的脳…悪夢を見せてくるかまってちゃん。
無意識脳…縁の下の力持ち。欲。

いわゆる「理性」と「本能」に分けるとしたら、
自我が理性で、無意識脳は本能、自発的脳はどっちの面も持っている。
(あくまでも私の妄想です)

感性っていうのは、自発的脳が感じ取っていることを、どれだけ自我が感じ取れるかという能力だと思っている。

自発的脳は、本当にいろんなことを感じ取ってくれている。吸収してくれている。だけれど、それが=自我としてそのまま流れてこない。
無意識脳から自我に流れてくるときはダムみたいだけれど、
自発的脳から流れてくるときは流しそうめんみたいに、ちゃんとつかまないといけない。
つかんだそうめんでお椀がいっぱいになっている人のことを、感性がある人って言うんだと思う。

自発的脳は、けっこうあらゆることを感じている。
「なんかこれ嫌だな。」
「うわ、これすごく印象に残るな。」
「あの人にある不思議な魅力って何だろう。」
こういうときは、自発的脳がガンガン働いている。
いつだって、サインはある。

感性が豊かだと、世界がビー玉からプラネタリウムくらいになる。
子供の頃、世界は、本物の宇宙のように大きかった。

今、私の世界はどれくらいだろう。
私のお椀には、どれくらいそうめんが入っているだろう。
いろんな経験をしたけれど、いろんな知識をつけたけれど、その分世界は小さくなっていないだろうか。

ホルマリン漬けのアインシュタインの脳に思いを馳せながら、夜な夜なそんなことを考えていました。



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