尊敬とは模倣である
「尊敬してます!」
こう言われて嫌な気分を抱く人はなかなか居ないだろう。
とても嬉しいし、ありがたい、なんなら光栄だ。
僕はこんなことを言える立場ではないが、
「尊敬してます」と言われて、腑に落ちない時が昔からあった。
尊敬という言葉はとても重い言葉だと思うのだ。
「嬉しい。けど、僕の何を知っているのだろう…」と思ってしまうことがあるのだ。
尊敬という言葉の定義について考えてみた。
そん‐けい【尊敬】
その人の人格をとうといものと認めてうやまうこと。その人の行為・業績などをすぐれたものと認めて、その人をうやまうこと。”デジタル大辞泉より”
なんとも重い…。
僕は”尊敬”してると心から思える人は少ない。部分的にはあるかもしれないが、人格自体を尊いと思うことはそうそうないであろう。
なぜ軽々しく尊敬という言葉を放つ行為に疑念を抱いてしまうのか。
それは尊敬という感情は理解の先にこそ生まれる感情なのではないか、と思うからだ。
故にその感情は近い人にしか抱けないと思っている。
だからあまり自分のことをさらけ出してない相手や、そんなに話したことのない相手に対して「僕の何を知っているのか」という謎の感情が芽生えてしまうのかもしれない、と思った。
偉人や故人を尊敬する、という場合がある。
例えばそれはその人の自叙伝等を読み、歴史を知り、半生を知り、物理的ではなく精神的な距離がものすごく近い存在になっているためだと考える。
なんにせよ近さは必要なのだ。近さは理解から生まれるものなのだ。
ファンという存在ながら尊敬の念を抱く人もそういうプロセスかもしれない。
この考え方で言うと、1~2回しか会っていなかったり、あまり知らない人を尊敬するのは、尊敬ではなく「憧れ」や「驚き」に過ぎないのである。
憧れや驚きを尊敬に置き換えるのは、それはしっくりこないわけだ。
では理解した先に尊敬があるとして、それはどのような形で表れるのか。
僕は模倣であると考える。
尊敬している人と言われて思い浮かぶ人は、僕の人生のあらゆるシーンに顔を出す。
人への立ち振る舞い、プレゼンテーションの際の話し方、情報収集の方法、仕事観の捉え方、生き方。
思い返せばかなり大事な場面で、僕は尊敬している人たちを口寄せの術の如く、精神上に召喚しているのだ。
「この人ならどうするか」
「この人ならどう話すか」
「この人ならどう考えるか」
「この人ならどう動くか」
その人を自分に憑依させ、判断するのだ。
これは人格を尊いものと思って敬っていないとできない。つまり尊敬だ。
そして紛れもなく模倣である。
もちろん、人格全てを尊敬しているわけではない場合もある。
しかし、側面も知った上で、つまり、理解した上での尊敬であり、模倣なのである。
様々な人から尊敬したい(模倣したい)部分を自分に憑依させ、何者でもない自分を創り出して行くのだ。
だから尊敬という言葉は重たい、そしてその言葉自体が尊い。
こんなことを思いながらふと、
「尊敬 模倣」という単語でググってみた。
なるほど、尊敬という言葉はフランス語で
【hommage】-オマージュ-
というらしい。
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